[謎解き]おばあちゃんの話~チョココロネさんの考察ページ1~
2018/04/23
みひろんさんのおばあちゃんの「海の神様の話」において、説得力のある考察を継続的にご投稿してくださっているチョココロネさん。
みなさんからの考察も増えてきたことから、チョココロネさんの考察を掲載するページを作りましたっ!
目次
- 「テンノゴコウ」と「羊の夢」について
- 短歌の考察
- 短歌『ひもろぎの~』などの考察
- 『いにしえの~』の考察
- 短歌「からしのに~」の考察
- 短歌「あまのみや~」の考察
- 色のイメージについて
- 「まちびと」ついての考察
- 「花開く世界」(10/22、1/12掲載)についての考察
- 「めやすぼし」(10/22、1/12掲載)についての考察
- 「かけはしごよみ」(10/22、1/12掲載)の考察
- 1月7日掲載の夢見の考察
- 夢見の続き(10月10日掲載)についての考察
- 霧の鳥居前の夢見と短歌(10/7掲載)の考察
- おばあちゃんのイメージ(10/5掲載)について
- お告げ(10/5掲載)について
- 「やがて来たりし時」と「ニの重なる年」の補足
- 「二の重なる年」について
- 新たな「記憶のお告げ」(9/25)の考察1
- 新たな「記憶のお告げ」(9/25)の考察2
- 「記憶のお告げ」の続き(9/26)の短歌の考察
「テンノゴコウ」と「羊の夢」について
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:3月29日(木)
「おばあちゃんから新年のご挨拶&封切りになった夢見の内容(1月3日掲載)」について考察します。
【テンノゴコウ(元日の夢見)】
おばあちゃんが2018年元日に見た夢では、「私には海の向こうから、お囃子の音色と共に、日の光とは別の強い光が差してくる、そしてどこの言葉なのかよく判らない会話が聞こえる、ただそれだけの夢見がございました。ただ、会話で1ヶ所だけ、「テンノゴコウ(天の五光?)」という言葉だけを聞き取る事が出来ました。」とありました。
『テンノゴコウ』は天の五光、後光、御光など、色々な漢字が当てはまるかと思いますが、私が一つ思ったのは「天の御幸」です。意味は「天の神様のお出かけ」です。
お正月には各家で歳神様をお迎えしますよね。おばあちゃんがご覧になったのは、歳神様の御幸されるお姿(御光)ではないでしょうか。
歳神様は元日の初日の出と共に現れるといわれています。とてもありがたい夢だと思います。
【羊の夢】
3匹の羊が出てくる夢は、おばあちゃんが2017年12月16日の明け方にご覧になりました。
波の女神様から次の満月まで口外しないように言われ、翌2018年の1月2日の満月の日に明らかにされたものです。
夢の内容は、波の女神様が時白砂と現れて、一番鳥が鳴くことから始まり、白い犬が現れ、続いて海の向こうから羊が順に3頭やってくる、というものでした。
時白砂様がいらしたことから、「時」に関係するお告げと考えますが、内容を拝見して思ったのは、これは歴史、過去の事柄を伝えているのでは?ということでした。
結論から先に申し上げると、この羊の夢は「海を渡ってやってくる人々と和して受け入れなさい。」という事だと感じました。
以下考察です。
「海を渡ってやってくる羊」は渡来人の象徴だと思います。日本にはもともと羊はいません。三頭の羊の様子から、渡来人、引いては「羊太夫」という歴史上(奈良時代)の人物が思い浮かびました。
〈一頭目の羊〉
最初の1頭は鐘と小さな秤のようなものを首から吊るしていました。「鐘と秤」から、物流、鉱物(銅)、鋳造を連想しましたが、羊太夫は武蔵国で和銅を発見したとされる人物で、その功績から領土を賜るなど地位を得ました。
〈二頭目の羊〉
二頭目の羊は靄の中で様子がわかりませんでしたが、不穏なイメージを感じました。和銅で地位を築いた羊太夫でしたが、ある時朝廷から謀反の疑いをかけられ討伐されてしまいました。
〈三頭目の羊〉
三頭目の羊の足あとだけは波で消されませんでした。羊太夫は滅ぼされてしまいましたが、羊太夫の足跡は今現在も残されています。
例えば羊太夫ゆかりの神社として「羊神社」があります。
夢見の3頭目の羊は彫刻のように質感が変わり後光のようなものがさしていた、とありましたが、羊神社には「羊の狛犬(狛羊?)」があるそうです。
後光は、狛羊が神聖なものだからかもしれません。…といった風に、こじつけ感もあるのですが羊の夢見から羊太夫を連想しました。
羊太夫には不思議な逸話があり、どこまでが史実で伝説か境界は曖昧です。
ただ、純度の高い和銅の発見が当時(奈良時代)の日本に多大な影響を与えたことは間違いないと思います。年号が「和銅」になったくらいですから。
ところで私見ですが、羊太夫は渡来人か渡来人の子孫だと考えています(諸説あります)。
古い時代、海を渡り非常に多くの渡来人が日本に移り住みました。渡来人は日本に文化をもたらし、国の要人にもいましたし、天皇家と婚姻も結びました。渡来人は日本の発展に大きく寄与した存在です。
しかし時には、その勢力を脅威に感じた側から弾圧を受ける事もあったのではないでしょうか?例えば羊太夫のように。
現在の日本では、祖先が渡来人でも大和人でも、その他の民族でも血が混じり合って馴らされた状態だと思います。民族を越えて和した、とも言えましょう。
しかしここ最近、国の内外で民族を区別するような風潮が増えてきたように思えます。
国際情勢から感情的になる気持ちも理解できますが、だからといって、もし理性をなくしてしまえば、弾圧を行った過去の歴史の二の舞です。
過去の人々が、人種を超えて和してきた歴史を振り返ってみれば、そのような差別的風潮がいかにナンセンスなものか気付くでしょう。
この先の未来、外国から移住する人や移民が再び増えるかもしれません。その人たちに対して、利益のみ搾取して、存在は排除するといった事がないように。
人同士を切り離して区別するのではなく、和して共に生きていくという意識が、今後私達に求められているように思えます。それもまたタメシの一つであるような気がします。
短歌の考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:3月18日(日)・22日(木)
『なみのこえ~』の考察
「おばあちゃんの新しい夢見(12月19日掲載)」の中の「12/17夜の夢見」について考察します。
夢見は、浜辺で国籍、年齢、時空も?超えた人々と動物達が、一斉に祈りを捧げるでした。
『なみのこえ おつちのこえに わしまして ねぎりとどけよ いのちのひかり』(波の女神様)
「波の声 お土の声に 和し申して 祈り届けよ 命の光」
意味:波の声を大地の声(または、その土地の声)と和して申し上げます。祈りが届きますように。命の光(が失われませんように)。おばあちゃんのお話ですと、この祈りは東(ヒムカシ)に向けて捧げられていたようです。
『次はキタに祈れよ、その次はミナミとニシ、またミナミとヒムカシ。ソラとナミにも欠かすなよ。』(男の人の声)
「次は北に祈れよ、その次は南と西、また南と東。空と波にも欠かすなよ」
考察:祈りの順番を考えると、東→北→南と西→南と東の順に何事か起こるということでしょうか。また空と波にも欠かすことのないよう祈りなさいとのことでした。
祈りを捧げるのは、大難がないようにという願いと、鎮めてくださっている事に対しての感謝を伝えるためです。(困った時の神頼みとは違います)平和や平穏は当たり前の事ではなく、護られているからこそという感謝の気持ちを忘れずにいたいですね。
『ひきしおの~』&『たまお(を?)つる~』の考察について
新しい夢見&補足&みなさんへのコメント(2017年12月23日掲載)の中で白の君(白装束の方)から伝えられた、
(1)『ひきしおの なみがあらう(ふ?)は かりそめの うきよかくさん つきみつるとき』
(2)『たまお(を?)つる つゆとしずくは しらねども ひじりさきわう(ふ?) みよあらまほしけれ』について考察します。
(1)『ひきしおの~』の考察
「引き潮の 波が洗うは 仮初めの 憂き世隠さん 坏満つる時」
意味:人に知られまいと秘密にしていた仮初めのつらい男女の仲。その男女の退き時が明らかになるのは、「坏満つる時」である。
考察:〈語句の意味〉
・引き潮:引き下がる頃合、退き時
・洗う(洗ふ):物事を明らかにする
・憂き世:つらい男女の仲
・坏(つき):食器の一種
「坏(つき)満つる」とは、坏が満たされるほどに食物が盛られている様子を意味します。おそらく神仏に捧げる供物でしょう(例.高坏(たかつき)は供物を供える時によく使われます)。
「坏満つる時」は、こうした供物が捧げられる行事や儀式を指すと思います。
句では男女の仲について詠まれていますが、このお二人は恋愛から身を引かれました。しかしこのことはまだ公にされず隠されています。
「坏満つる時」は、成婚に向けた行事の一つと考えられますが、この行事が行われないことで初めて、お二人が身を引かれ、婚姻されないことが明らかになるのではないでしょうか。
お二人の関係は公になるまでの間「仮初め」に過ぎませんが、事実は隠さねばならず「憂き世」とあるようにつらい心情が読み取れます。
以前おばあちゃんのイメージにあった「策」「乱」「女」ですが、もしかしたらこの事に当てはまるかもと思いました。
このような考察で忍びない気持ちですが、解釈したまま投稿させていただきました。
もう一つ考察します。
「引き潮の 波が洗うは 仮初めの 憂き世隠さん 月満つる時」
意味:引き潮の波が明らかにするのは、俗世間での軽々しい隠し事である。満月の時(に波が洗う)。
考察:〈語句の意味〉
・引き潮:波が引く事、干潮
・洗う(洗ふ):波が寄せては返す、水でよごれをきれいにする
・仮初め:軽々しい、軽率な、軽はずみな
・憂き世:俗世間、つらく苦しいこの世
白の君(白装束の方)が、『次に来たるは新たな波、全ての事柄において、隠されていたものが明らかになり起こる、という事に気付く年となるでしょう。』と仰ったように、今年2018年は隠されていた物事が表面化して明らかになるのかもしれません。
実際に連日ニュースで国の隠し事(森友問題)が取り沙汰されていますね(こちらもまさに「策」「乱」「女」ですが)。私達の住む俗世間には、こうした隠し事がいろいろと潜んでいるのでしょう。
「引き潮の波が洗う」ということは、引き潮で波が引いて、底に隠れていた事が露呈するということ。退き時(=退陣など?)によって事態の収拾が図られるのかもしれません。満月の干潮時がそのタイミングでしょうか?
また句の「波が洗う」は、文字通り波(水)できれいにする、という意味にも取れるのですが、もしかすると実際の波が世俗の汚れを浄化するために「洗う(=寄せて返す)」ということなのかもしれません。そうなると、災害の可能性も出てきます。
満月の時(満月に近い数日も)は大潮となり、潮汐の差が大きくなります。もし(干潮の時も含め)波が異常に引くようなことがあれば、寄せ返し(満潮)でより大きな波が来るかもしれません。
また、満潮時に他の要因(台風など?)が重なると相乗効果で高潮になる危険性もあります。満月の日の波の動きには警戒した方がよさそうです。
(2)『たまお(を?)つる~』の考察
「玉落つる 露と雫は 知らねども 聖幸ふ 御代あらまほしけれ」
意味:落ちる玉が露か雫かわからないけれど、天皇の幸福な御代であってほしい。
考察:〈語句の意味〉
・聖:天皇、徳の高い人物
・幸ふ(さきはふ、さきわう):栄える、幸福になる/栄えさせる、幸福にさせる
・あらまほし:そうであってほしい、望ましい
「玉」「露」「雫」は涙の比喩です。何か心痛める事がおありになり、天皇が涙されている様子が伺えますが、悲しんでいる天皇が幸せに思える治世であってほしい、という願いが句に詠まれています。
もう一つ考察します。
「たま復つる つゆ(露)と沈くは 知らねども 聖幸ふ 御代あらまほしけれ」
意味:「たま」が元に戻る。(たまが露となって水に)沈んでいるとは少しも知らなかったことだなあ。天皇が御代を栄えさせる事が望ましい。
考察:〈語句の意味〉
・復つ(をつ):元に戻る、若返る
・つゆ(露):少しも、まったく
・沈く(しずく):沈んでいる
元に戻る「たま」とは、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)ではないかと思います。
以前に『みやしろの~』の短歌を、「宮城(=皇居)から玉(=八尺瓊勾玉)が密かに奪われる」と考察しました。
この奪われた「たま」が、なぜか水に沈んだ状態で発見されるということのようです。露は水の「露」と、「少しも」という両方の意味が掛けられています。
八尺瓊勾玉は神器であり、皇位継承の証です。
もし万が一奪われる事があれば一大事であり、天皇が地上を治める上で大きな問題になります。
天皇が地上を治めるとは政治に介入する事ではなく、統治者として存在するということです。
以前「(八尺瓊勾玉が奪われることが関係し?)天皇が地上を治める役目を終える時が訪れる」と考察したことがありましたが、そのような空白期の後に再び奪われた玉(=八尺瓊勾玉)が見つかることで、天皇の治世が復活するのではないでしょうか?
「聖幸ふ 御代あらまほしけれ」と句で締められているのは、ようやく奪われた玉が戻ることで、天皇が御代を栄えさせる事ができるし、それが本来望ましい事だ、という事だと思います。
またもう一つ、「復つる」には「若返る」という意味もあります。
失われた八尺瓊勾玉が見つかった時、おそらく天皇は代替わりしていると思いますが、再び八尺瓊勾玉を受け継ぐ「聖」とは『まちびと』ではないかと考えています。
この先、万が一「たま(八尺瓊勾玉)」が奪われて治世に空白の期間が生じたとしても、『まちびと』が現れる事によって世の中が再び落ち着きを取り戻すのだと思います。
以前の『みやしろに~』の考察の時にも、波の女神様の『仮初めとはいえ、さんかいの和が揺らぐは悲しき事です。』というお言葉を、「「たま」が奪われることによって、仮初め(=一時的)ではあっても、世の中の和が揺らぐ、つまり乱れる」と解釈しましたが、それもまた今回の事と繋がります。
もちろん八尺瓊勾玉が奪われるなどあってはならないことですし、あくまでこの考察上のことです。
しかし、本当にそんなことがあったとしたら天皇家を揺るがす一大事ですから、おそらく公にはされないことでしょう。
私たちがそれを知り得るとしたら、赤城山や天城山に現れる印によってだと思います。
赤城山では木枯らしが吹く中雪が溶けることがあったり、天城山では虹が見られるかもしれません。それらが印です(詳細は以前の考察をご参照ください)。
今年は「目に見えないことが明らかになる年」という事なので、印があればそれを見落とさず注意していきたいと思います。
短歌『ひもろぎの~』などの考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:3月8日(木)
「新しい夢見とみなさんへのコメント(2017年12月6日掲載)」の下記3つの短歌
(1)『ひもろぎの いわにひびくは かみのこえ いずれきこゆは とうげのしらせ』(力強い男性の声)
(2)『わしてこそ ねぎるちからの みなぎらん さきのむすびや あなめでたけれ』(女性の綺麗な声)
(3)『なみひきて たけづつひかる つきのよに ゆきてうみやま すめらみちびく』(波の女神様)
について考察します。
【はじめに - 神議(かむはかり)のこと】
お告げは、昨年2017年12月4日(旧暦10月17日)の満月の夜に伝えられました。この日は、出雲大社で行われた「神在の祀り」の最終日でした。
神在の祀りでは、全国から神様が出雲(出雲大社)に集まり、『ムスビ(=縁結び※)』について神議(=神様の会議)が行われるといわれています。
※「縁結び」とは、男女間に限らず人同士や物事の縁を結ぶことです。おばあちゃんがお告げを聞いたのは、おそらく神議で『ムスビゴト』が決まった後、場所は本殿かもしれません(高い建物のようでしたので)。
おばあちゃんが神在の祀りの様子をご覧になったことには驚きました。神様方は、やはり神有月に出雲に集合されるのですね。
そして神議では私達を取り巻く様々な縁を結んでくださるのだと思うと感動しました。大変ありがたいことです。
さて、この時の神議で決まったムスビゴトは、一言で言うなら「多少猶予を与えられた」という事です。この時間を無駄にしないように、今こそ心を改める時です。試されています。
【(1)短歌『ひもろぎの~』の考察】
「神籬の 磐に響くは 神の声 いずれ聞ゆは 峠の知らせ」(力強い男性の声)
意味:神籬の磐座に響くのは神の声である。いずれにしても申す事は大峠の兆しである。
考察:神籬(ひもろぎ)とは神域や神の依り代を意味します。なので『ひもろぎのいわ』とは、神霊の依代となる岩石の「磐座(いわくら)」のことだと思います。
古代では、神様が宿る岩(磐座)を祀る信仰がありました(磐座信仰)。のちに磐座を御神体として、祭祀の場に神社が建った所もあります(古来のまま現在も自然の中にある場合も多い)。
古神道では、磐座に響く神様の声を神託として受け取っていたのかもしれませんね。
そしてこの短歌では、峠(大峠)の知らせは磐座を通して『いずれ』知らされるとあります。
『いずれ(いづれ)』とは、「どちらにせよ」という意味です。これまでのお告げからも、今後私達に数々の災いや『タメシ(試練)』が起きることが予想されますが、大難を小難にできるか、逆に、より厳しいものしてしまうかは、私達の心掛け次第ということでした。
しかし、そのどちらに転んだとしても大峠は将来必ずやって来るものであり、その兆しは「磐座」を通して知らされるだろう、と短歌は伝えています。
〈どの磐座を指すか〉
全国には数多くの磐座がありますが、この短歌で詠まれた磐座とはどこにあるものなのでしょうか?
この短歌が出雲大社で詠まれたことを考えると、出雲大社(または大国主やスサノオノミコト)に関係する磐座とも考えられますし、また、全国の神様が集まっている神在の祀りの時でしたから、それこそ全国の磐座を指しているのかもしれません。
もう一つ考えられるのは、おばあちゃんが見た地図にある『ワ』です。
「磐」の字は「わ」とも読みます(例.常磐堅磐(ときわかきわ※古くは「ときはかきは」と書きますが、この「は」は「わ」と同じ発音です))。
地図の「ワ」の意味はいくつかありそうですが、その一つとして、磐座の「磐(ワ)」もあるのではないでしょうか。
「ワ」と表記のある神社には「磐座」があるように思えます(※皇居の「ワ」については、磐座があるのか不明ですが、もしかしたら神器の八尺瓊勾玉のことかもしれません)
〈タメシと大峠〉
以前、「タメシ」と「大峠」を混同していたのですが、別の事だと今回改めて確認ができました。
大いなるお方のお言葉によると、大峠がやって来るのはしばらく先(数十年後?)の事かもしれません。
大峠の前には数々の災いや『タメシ(試練)』がまずある。災いは、私達の行い次第で防げるものもある、と知らされました。
一方で避けることのできない『大いなるタメシ』もあるようです。それはこれまでのお告げにもあったように、私達にとっては心魂を磨くために必要な試練であり、荒療治のようなものだと思います。
辛くても乗り越えなくてはいけません。これから先、辛い世の中になったとしても、「いずれにせよ」時がくれば大峠が始まります。
それは玉手箱の光景のような予想もつかない大変革になると思います。大峠が始まる前に、私達がどのような世の中にしているかで、次の世もどうなるか決まるでしょう。和と明と弥、和して明るく思いやりの心を持って今後に臨んでいきましょう。
【(2)短歌『わしてこそ~』の考察】
「和してこそ 祈ぎる力の 漲らん 先の結びや あなめでたけれ」(女性の綺麗な声)
意味:(多くの人々が)皆で和してこそ、祈りの力が満ち溢れるものだ。将来の「結び(=縁結び)」が、ああ、喜ばしいものでありますように。
考察:今回のお告げのように、毎年出雲で『ムスビ(=縁結び)』の取り決めが神様方によって行われるとして、私達が「皆良し」であれば良い方向へ、逆に「我良し」が多ければ反省を促すような試練を、というふうに『ムスビゴト』が決まるのではないでしょうか。
神様方も、本来は喜ばしい「結び」ができることを望んでいるのです。それには、私達が皆良しの心を持って、共に和して祈る事が大切です。そうすれば祈りは大きな力となり、神様方に伝えることができるでしょう。将来が良い方向へ導かれるためには、私達の心がけが非常に大事なのです。
【(3)短歌『なみひきて~』の考察】
「波引きて たけづつ(竹筒/嵩星/健雷)光る 月の夜(次の世)に 行きて(/逝きて)海山 皇導く」(波の女神様)
意味:(タメシの)波が引き、「たけづつ」が光る月の夜、皇が海山に行き(魂を連れて)次の世に導く
考察:将来、数々のタメシが波のように押し寄せて来ますが、「波引きて」とは、そのタメシが終わった後を意味します。
つまりこの短歌では、タメシの期間が終わり、大峠が始まる前の事を詠んでいます。
皇(すめら)とは、この場合地上の統治者のことです。おそらく『まちびと』を意味するでしょう。
『たけづつ』が光る月の夜、皇(=まちびと)が海にも山にも(地上のすべての場所に)お行きになり、(魂を引き連れて)次の世へ導く、とあります。
『ゆきて』は「逝きて」とも読めることから、この時「皇」は既に人ではなく神魂となっているのかもしれません。
そして地上のあちこちを巡り、人々や生き物すべての魂を集め、引き連れて、次の新しい世に向けて旅立つ、そのようなイメージに読めました。
「たけづつひかる」については3つ単語を当ててみました。いずれも光るものです。
1.「竹筒光る」
かぐや姫のお話のように、竹筒が光るという意味です。
竹は成長が早く生命力を感じさせる植物であることから、「ムスヒ(産魂)※」の意味合いがあるのではと考えます(かぐや姫が竹から生まれたのも、そうした概念からではないかと思います)。
※「ムスヒ(産魂)」とは、万物を生成する霊力のこと。皇が導く「次の世」が、新しく産み出されることの暗示ではないでしょうか。
2.「嵩星光る」
「星」は、古くは「つつ」と読む場合がありました。この場合『たけづつひかる つきのよに』は、「星が空高く光る月の夜に」という意味になります。
3.「健槌光る」
「健槌」とはタケミカヅチを意味します。なので、この場合光っているのは雷になります。古い時代に雷の事を「ツツ」と言っていたのでは?とする説があります。
雷の凄まじさは、時に木や岩を砕く「槌(ツチ)」のようでもあり、雷と槌、ツツとツチには関連性が考えられます。
ただし、雷や槌を「ツツ」と言うかは定説ではないので信憑性は低いかもしれません。ですが、『たけづつ』の3つの解釈の中で自分では一番気になるところです(というのは、気になる理由が別にあるからなのですが、今投稿するのは止めておきます)。
【最後に(余談もあります)】
大いなるお方の御言葉は、わかりやすく告げられていますので、一人一人が改めて読んで考えてみることが、まずは大事だと思います。
御言葉の一つに、『宮をタテカエえるに、全てをサラのチにしてタテカエルは易けれど、わが子らの為、それはするまい。』とありました。
これは「現状をリセットして1からやり直すのは簡単だが、まずは立て直せるかどうか自分達でやってみなさい。」という意味にもとれます。
近年出雲大社で大遷宮が行われましたが、屋根の葺き替えや補修など、いわばリフォームであって建て替えではありませんでした。この点が伊勢神宮とは異なる点です。
(はるか昔には出雲も建て替えだったと思いますが、近世このように変わってきました)
建て替えとなると時間も労力も、そしてコストも莫大ですから、建て替えしないのは経済的な理由ももちろんあるかとは思うのですが、「今あるものを生かして次に繋ぐ」という精神もどこか感じたりします。
大いなるお方が『宮をタテカエるに~』と仰った真意が何であるかまだ測りかねるのですが、大遷宮の事もあって、いかにも出雲らしい御言葉に思えた次第です。
私ごとですが、このお告げの前に出雲に出かけていました。出雲の訪問は成り行きと言うか、たまたまだったのですが(神様に失礼ですがすみません)、出雲に行くなら出雲大社にお参りしよう、それなら事前に古事記を読んでおこう、と本を手に取った最中に、みひろんさんの投稿を拝見しました。
もし出雲に行く予定がなく、また古事記を読んでいなければ、お告げの考察に参加していなかっただろうと振り返って思います。
また、最初にみひろんさんが投稿した『オタマノヤシロ』の件で、『サナル』と出てきた時、佐鳴湖が考察に上がっていましたが、しばらく佐鳴湖の側に住んでいた事があったので驚きました。佐
鳴湖も出雲もたまたまなのですが、これも何かの縁かと思い考察しています。
『いにしえの~』の考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:3月11日(日)
新しい夢見その2(10月25日)の句
『いにしえの つたえやむなし たつのはら さだめしときに なみはかへりぬ』について考察します(追記)。
この句については昨年(2017年10月26日投稿)に一度考察しましたが、今回はその追記になります。
以前の考察では「古の 伝えや虚し 立つの腹 定めし時に 波は返りぬ」
意味:古(いにしえ)からの伝え(言伝)も無駄だ、腹立たしい。定めた時に(タメシの)波が間違いなく返すはずだ。と解釈しました。
この『いにしえの つたえ』ですが、「古事記」ではないか?と考え始めています。
「古事記」は現存する日本最古の歴史書です。かつては「ふることふみ」と呼ばれていました。
天武天皇が命じて編纂させ、内容は簡単に言うと天皇家のルーツを記したもので、神世の章から始まります(なので、歴史書というより、物語的であると考えられてはいます)。
ところでこの「古事記」ですが、現在原文は見つかっていません。いま残っているものは全て写本になります。
写本とは、借りてきた本を手書きで書き写したものです。古事記の写本は現在何点(数系統)か残っていますが、実は写本毎に若干の違いがあります。
これは手書きで書き写した為に写し間違えがあったり、書き手の解釈(書き換えたり?)のためではないかと考えられます。
なので、写本は原文と(大筋は違わなくとも)細部に違いがあるというのが通説ですが、原文がないことには本来何と書かれていたのか確かめようがないのが現状です(細部の違いと言っても、意味はだいぶ違ってきます)。
この古事記の原文ですが、もし今もどこかに残っているとするなら、皇居か皇族の方がお持ちなのではないか?と、個人的な推理ですが思います。
もともと、天武天皇が書かせた書ですから皇族がお持ちであるのが正当ですし。
ところで、おばあちゃんが見た地図に、東京で古い書物が燃えている図がありましたが、それがもしかしたら、古事記の原文ではないか?と考えています。
もしも古事記の原文が現存するなら大発見ですが、地図に描かれた書物のように燃えて無くなるようなことがあれば『むなし(虚しい)』く非常に残念ですし、まさに『たつのはら(立腹→腹が立つこと)』です。
もし古事記の原文があるとするなら、まさに『いにしえからのつたえ』であり、日本にとって大切な宝です。失われない事を祈ります。
短歌「からしのに~」の考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:2月18日(日)
短歌『からしのに めぶくちはやの とりのおや せけるしおばら いぬのとおぼえ』を考察します。
「加良之野に 芽吹く千羽矢の 鳥の親 急ける為終腹 犬の遠吠え」
意味:からし菜の野に芽吹く千の羽の矢、その羽矢の鳥の親玉(=鳥の大将)は、やり遂げようと焦る心でおり、それはまた臆病者の強がりである。
〈語句について〉
・加良之(芥子、からし):からし菜のこと
・千:とても数が多いこと
・羽矢:矢のこと
・親:集団の長、親玉
・為終(しお・しを)ふ :やりとげる、なし遂げる、しとげる
・腹:こころ、考え
・犬の遠吠え:臆病者が強がったり、陰で威張ったりする例え
考察:この短歌では、いくつもの比喩や掛詞が織り込まれています。からし菜(加良之)はピリッと辛い春先の野菜です。
その葉は羽状に生えることから、短歌ではからし菜の葉を鳥の羽になぞらえていますが、からし菜も羽も比喩であり、実際は羽矢(矢)のことを指しています。
ここでの「羽矢」とは、矢のように飛んで行く武器の事でしょう。多分形は「芽」に似ていて、「羽」のあるもの。また 『からし』は「辛し(からし)」とも読め、酷い、残酷だ、という意味です。その武器の恐ろしさを暗示しています。
短歌では、非常に多くの「羽矢」が次々と野に準備されている様子が芽吹きのようだ、と表現されています。
それら羽矢を取り仕切っている「鳥の親玉」と揶揄される人物は、その軍団の大将のことです。
その人物は焦りがあり、また臆病者なので、沢山の武器を準備することで威嚇したいのです。まるで「犬の遠吠え」のように強がっています。
『せけるしおばら』は「急ける潮原(海原と同義か)」とも読め、羽矢は海を越えられるような飛距離を持つ武器だろうということもイメージできます。
解釈をしてみると、この短歌の光景が過去に北朝鮮が行った沿岸での砲撃演習のようだなと思いました。確か春にやっていました。演習でも物騒なことですが、実践でそのような事がないといいのですが。危惧しています。
もちろん短歌の内容が北朝鮮の事だとは限りませんが、『からし』の「から」は深読みすれば外国を示す単語にも取れます。
この短歌では、芽吹きを詠むにはあまり一般的でない「からし菜」がチョイスされた点が意味深でした。いろいろな見方のできる語句です。
2017年11/3の夢見の「金色に光る富士山の絵」について(11月17日掲載)
『…少し形が今の富士山と違っていた…』
富士山は側火山(寄生火山)がとても多い山で、その数は実に70以上あります。
山頂ではなくても、山腹や山麓で大き目の噴火があれば、将来お山の形が変わることもあるかもしれません。
短歌「あまのみや~」の考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:2月14日(水)
「新しいお告げと夢見(11月17日掲載)」の短歌、『あまのみや めぐりきゆるは そらのはて いなるところに つちのふるえん』(女性の声)について2つ考察します。※一部、白装束の方の弓矢と絡めての考察となります。
【1つ目の考察】
「天の御矢 巡り消ゆるは 空の果て 射成る処に 土の震えん」
意味:天の御矢が放たれて空の果てに消えて行った。射られた場所の地が震えることだろう。
考察:「土の震えん」とは、文字通り「地震などによって大地が震える」という意味と、「その土地に、人々が驚き震える出来事がある」という意味に解釈できます。
「天の御矢」とは、おばあちゃんの夢見(1月26日掲載)で白装束の方が放った矢のことかもと思います。
白装束の方が放った7本の矢のうち、落ちることなく空に消えた矢が4本ありました。それらが到達した場所が「土の震えん」ことになるのではないでしょうか。
矢の色について五行(の方向)を考察された方がいらっしゃいましたが、私も同じ考えです。
空に消えた矢は、
・青(藍?)色→東→東国(東海~甲信越~関東?)
・黄色→中央→畿内(近畿地方?)
・赤(紅?)色→南→筑紫など(九州~沖縄?)
・黒色→北→蝦夷や陸奥(東北~北海道?)
の地域にそれぞれ飛んで行ったとすると、西以外の地域はこの先注意が必要です。
白色の矢→西(西国、中国地方や四国?)については、空に飛んで行かず旋回していた事から、夢見の時点ではまだ場所が定まっていないか、不確定なのかもしれません(今後飛んでいく可能性は残っています)。
古事記では、鳥がメッセンジャーとして登場する場面があります。矢は鳥(矢羽と同じ色の?)に姿を変えて飛んで来るのかもしれません。それが印でしょう。
他のお告げにも『鳥に注意』とありました。また、矢は状況を占う時に放たれる事があります。
今回の場合、もしその地に「タメシ(試練)」が必要であれば飛んでくるということだと思われるので、逆に言えば私達の行動(正しい心魂でいる事や祈りを絶やさないなど)いかんで避ける余地はまだあります。
白装束の方が、『さてさて、今射たものはどうなる事か。』と仰ったのはそういう意味だと思います。心掛け、祈りましょう。
【2つ目の考察】
「天の宮 巡り消ゆるは 空(虚)の果て 去なる処に 土の震えん」
意味:天津神の去った宮(神社)。時が過ぎて、神様のお力が消えてゆき、果てにはからっぽに無くなってしまうと、その地が震えることになるだろう。
考察:天津神(天界の神様)を祀る神社は数多くありますが、ここでは特に天降りをした天津神の神社のことだと思われます。
その神社では、すでに神様は去られていて「いない」ようです。ただ、去られた後もお力は残っており、その地は護られていたものの、歳月が流れてそのお力も弱まり、ついには無くなる時が来てしまうようです。
するとその地には「土が震えん」ことが起るようです。
では、どの天降った神様についてなのか?ですが、気になるのはタケミカヅチ神です。タケミカヅチ神は、古事記の「国譲り」の際に降臨し、現在は茨城県の鹿島神宮にお祀りされています。
鹿島神宮の要石は地震を抑えているという言い伝えがありますが、短歌のようにもしお力が消えてしまったとしたら地震を抑えられなくなるのかもしれません。
もちろん鹿島神宮が歌に詠まれた神社とは限らず、私が思っただけに過ぎません。た
だ、タケミカヅチ神は奈良の春日大社ができた時に勧請されました。勧請は分霊であったとは思いますが、そうしたいわれもあることから気になりました。
勧請とは、神仏の霊(分霊)を新たに寺社に迎え奉ることです。タケミカヅチ神は春日大社の祭神として勧請された際、白鹿に乗ってやって来たといわれています。
色のイメージについて
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:2月7日(水)
おばあちゃんの色のイメージについて
2017年10月7日と2018年1月26日掲載の投稿の中で、おばあちゃんが気になっている『黒』、『赤』、『金(装飾程度?)』のイメージについてですが、奈良県にある「談山神社」のような感じでしょうか。
「十三重塔」や「本殿」など、朱塗りの建物ですが、屋根が檜皮葺きで黒っぽい感じがします。場所は、おばあちゃんが見た地図の「<奈良?>紀伊半島で見て上の方、たぶん奈良県で言うと真ん中あたり?「鳥居」の絵がハッキリと1つ。右上に小さく「ワ」と書かれていた。周囲は薄紫色だったような気がする。」に近いかもしれません。
「まちびと」ついての考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:2月10日(土)
「記憶のお告げ」(10月22日、1月12日掲載)の巻物の七つ目『まちびと』(智能泉種様)について考察します(一部)。これから先「待ち人」が私達の前に現れるという内容のお告げです。
『汝らのまちびと、やがて来たる。ネの国より生じ、北よりメグリ終えて、オワリの地に来たる。現世の艮の方向より御魂現る。生を得て二つの都を往かれ、やがて縁あるオワリの地に辿り着く。多くのハタラキにより育ち、やがてその時を迎えん。』
この文には生い立ちのくだりが続けて2回述べられています。
(1)『ネの国より生じ、北よりメグリ終えて、オワリの地に来たる。』
(2)『現世の艮の方向より御魂現る。生を得て二つの都を往かれ、やがて縁あるオワリの地に辿り着く。』
この(1)と(2)はおそらく同じ事を伝えていて、片方だけだと曖昧な言い回しですが、両方を付き合わせてみると具体的な内容があぶり出される暗号になっています。
生誕地
『やがて来たる』とされる「待ち人」は、『人なりし神、神なりし人』とあることから、神様であるけれど人として現世に御生まれになるようです。
(1)の『ネの国より生じ』ですが、ネの国といえば通常「根の国(=根の堅洲国)」のこと。しかし根の堅洲国は黄泉の国とも言われる異界なので、人として生まれる現世ではありません。
ということは、(1)の「根の国」とは根の堅洲国のことではなく別の意味だと予想されます。
一方、(2)『現世の艮の方向より御魂現る』では「現世」とはっきり述べられているものの『現世の艮(東北)の方向』だけでは場所がわかりません。
しかしこの「艮(うしとら)」がヒントになっています。「根(ネ)の国」の「根」の字を分解すると「木」+「艮」です。
つまり(1)の「根の国」の意味は「木の艮(うしとら)の国」、つまり「木国(紀伊国)の北東方向にある国」が待ち人が生まれる場所ということです。
日本の古地図で考えると木国の北東側には大和国(奈良)や伊勢国(三重)があります。…この先も考察が続くのですが、思うところがあり今は止めておきます。途中までですがすみません。
もしこの先『オタマの封』が解かれるか(解かれない方がいいのですが)、投稿しても差し支えない(?)状況になったら、最後のカタカナの文字の考察も含めてまた続きをお伝えしようと思います。
御名前について
那佳智加楽月珠様と智能泉種様は、お二方とも知恵に関わる御名前のようです。
那佳智加楽月珠様の「那佳智加楽」は、多くの良い知恵を加え楽にする→つまり、多くの良い助言を与えるという意味にとりました。実際に那佳智加楽月珠様のお告げはそうした内容でした。
智能泉種様は、知恵の才能が泉のように湧き出る知恵の種、という意味だと思います。実際に『まちびと』の巻物は謎掛け的で「とんち」や色々な考え方が必要な印象でした。
お二方はかつて『同胞』だったそうです。那佳智加楽月珠様の「月珠」はまさに「月」の事ですから、『同胞』の意味がとても興味深いところです。
智能泉種様は、私達にとても近い存在の方かもしれないですね。それはいずれ明らかになるかもしれません。
時白砂様と波の女神様の場合は本名ではなく通称?かなと思いますが、同様に意味がわかります。
時白砂様は以前にも考察したように、時を知らせる、また治(し)らすという意味です。
時の管理者のようなイメージでしょうか(時を操るわけではない)。定まった時を私達に伝えていただいたり、暦と深い関わりがある方だと考えています。
波の女神様は、ナミノヒビキ様、シラナミ様です。「波の響」とは波の音のこと。「白波」は波そのもの。波が来る前には、音を聞いて来ることが予想できますよね。
やがて来る「タメシの波」の前に、今は「波の響」としてお告げを伝えていただいているのだと思います。
これから来る「波」を小さく抑えることができるか、また波が来てしまったとしても乗り越えられるよう対処できるかどうかは、お告げを聞いた私達が今後どうするかにかかっていると思います
。古事記に出て来る神様もそうなのですが、御名前はその方を表すものです。
なので、名乗られたということは考察をするヒントでもあるし、逆に名乗られない場合は、それもまた意味があるということです。
考察は以上です。このところインフルエンザが急激に広まっているようです(師走から?)。皆さまどうぞお身体をご自愛下さい。
「花開く世界」(10/22、1/12掲載)についての考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:2月3日(土)
「記憶のお告げ」(10月22日、1月12日掲載)の巻物の三つ目『花開く世界』(那佳智加楽月珠様)について考察します。
お告げを読むと「うつつ世=地球」に思えるのですが、『花開く世界』では地球の在り方自体が一変するようでね。(というより、その時地球はあるのでしょうか?)
『あなた達のうつつ世に繋がるものは数、花開く世界は数で表される世界です。あらゆるものの種(タネ)の根源は数の力であり、種の数によって「イロ(色)」や「カタチ(形)」の現れ方、「ハタラキ(働き)」が変わってくるのです。』
これはまるでDNAの事みたいですね。
『モノゴトのハジマリを忘れてはいけません。最初は心魂、それから肉。あくまで霊が主で、肉体(=種)と霊(=力)は別物です。ハタラキをする、しない、それぞれで形も変わります。』
例えばDNAは生物の設計図だといわれますが、DNAを人工的に作ったとしても、生命にはなりません。
月珠様が仰るように、霊が主としてあって初めて生命のハジマリになるということでしょうか(霊を科学で証明することは今現在できていませんが)。
『人が自然の和の営みの仕組みをよく理解せずに手を加える事で仕組みは崩れ、人を含む命全ての自然との調和が、仕組みが崩れる速さに置き去りにされて、しっぺ返しを食らうでしょう。人の知恵はいまや不完全ですが高く育くまれている。このままが一番危ういのです。』
これは科学の事のようですね。科学は諸刃の剣です。いたずらに技術を創り出して人の手に負えなくなれば、将来大変な事になります。
実際に原子力がそうでしたし、クローン技術も将来どうなることでしょうか?
この他にも月珠様からは、宗教観の違いによる弊害などが語られ、『花開く世界』の巻物では私達が現在抱える数々の問題について警告されていると感じました。肝に銘じてどうにかしないといけません。
最後に伝えられた言葉、『ハナヒラク、カナメ ヨミワタシノ フ。』はいくつかに解釈できました。
(1)「花開く要、読み渡しの 譜(符)」と読んだ場合
意味:花開く世界を迎えるには、神様方が私達に読んで聞かせている「譜(符)→お告げの事」をよく理解することが要である。(だから塾考しなさい)
(2)「二(フ)」について
『めやすぼし』の巻物と同様に、最後の文字『フ』は掛詞で、漢数字の「二」だと思われます。
数字の意味の一つは「記憶のお告げ」で伝えられた内容を理解し実行する順番ではないでしょうか。
すなわち、「一、めやすぼしの巻物」我良しを捨て心魂を改める(それが達成できれば「目安星」が見えるようになる)。
↓
「二、花開く世界の巻物」一で改めた心魂を持って、数々の問題に向き合わねばならない。(それができるなら玉手箱の3つ目の箱を開ける事、つまり花開く世界に道を拓くことが許される)。
また、おばあちゃんの見た地図に漢数字の六があったので、この「二」も、地図に関わるかもしれません。
(3)「花開く要、黄泉渡しの船(艀)」と読んだ場合
意味:花開く世界へは黄泉に渡す船(艀)に乗ることが要となる。
この「黄泉に渡す船(艀)」ですが、以前のお告げに出てきた船のことかもしれません。
「またまたおばあちゃんが神様に会った」(2017年8月1日掲載)の夢見で、おばあちゃんは「後光のようなものを受けた男性の神様」と、その周りに「沢山の人々が乗った大小の船」をご覧になっています。
波の女神様によると、船に乗っているのは『海にかえった清らかな魂たち。』であり、『この船にもっと多くの清き者を乗せ救いたいと思う。』と仰っていました。
また「新たに3つの短歌(9月8日掲載)」の短歌『時津神 天より出ずる 沖つ船 御霊わしたる 羽衣うれし(9月11日考察掲載)』も、上記の大小の船の事を詠んだものだと思います。
(ちなみにこの短歌のお告げの時、浜でおばあちゃんが見た明けの明星のような星は「めやすぼし」かもしれませんね)
上記のお告げに出てきた船が「黄泉に渡す船(艀)」であるならば、この船に乗ることで魂が救われ、黄泉を経由して花開く世界に至れるのかもしれません。
(4)『花開く、要』は腰切塚のこと?
月珠様が文中で『古くからある文字には大いなるお方の意思が宿っているものもあるのです。あなた達にとって、物の成り立ちの根源は数、ハタラキの現われ方は文字で示されるのです。』と、文字について触れた部分がありました。
そこでカタカナの言葉『ハナヒラク、カナメ ヨミワタシノ フ。』に使われている単語について考えてみました。
特に注目したのは『カナメ=要』です。この単語だけは、掛詞ではなく「要」としか読めませんでしたので。「要」のもともとの意味は「腰」です。
ところで「花開く」のフレーズはこれまでのお告げにも出てきており「フジ(富士)」と関連がありました。
なので「花開く、要(=腰)」から、富士山に「腰」が関係する場所があるのでは?と思い調べてみると、富士山の近くに「腰切塚」が見つかりました。
「腰切塚」は富士山の側火山(寄生火山)の一つで噴火口跡もあります。
ここで気になったのが、先日の白装束の方のお告げ「新しい夢見[1/24夜](1月26日掲載)」です。
『お土を超えて富士のお山のハラカラ(兄弟姉妹と頭に浮かんだ)達が物言う事に気を付けなさい。下から上へ。トリも来たる。上から下へ。』
『富士のハラカラ』とは、腰切塚のような富士山の側火山(寄生火山)のことなのではないでしょうか?
おばあちゃんが見た地図の
「<神奈川>「富士山」の右下に「湖?」と「丸囲みされた山」(たぶん箱根)の絵。薄墨で書かれた感じ、周囲に薄黄色が出ていた。」の丸囲みされた山ですが、腰切塚の位置は富士山の南東、つまり右下にあるので場所的にも符合します。(ただ、湖(芦ノ湖?)が書いてあるので箱根山かもしれませんが)
「腰切塚」については考えすぎかもしれませんが、気になりましたので念のためお伝えします。
【おばあちゃん、みなさまへ】
皆さんの考察を読むと、段々とピースが繋がっているように思えます。皆で和して話(わ)すれば、この先確信に迫れるような気がしています。これからも宜しくお願いします。
「めやすぼし」(10/22、1/12掲載)についての考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:1月27日(土)
「記憶のお告げ」(10月22日、1月12日掲載)の巻物のニつ目『めやすぼし』(那佳智加楽月珠様)について考察します。
『めやすぼし』のお告げには、わかりやすい言葉で数々の助言がありました。誰もがまず自分で読んでみて、心に留め置くことが大事なのだと思います。
『「お役目」を間違えないようにしなさい。「我(が)」を握りしめるのはやめなさい。握った手を開いて「我」を捨てれば、新たなものを手に握る事が出来ます。これらに気付き、心魂を磨き上げた者には「めやすぼし」が空に光るのが見えるようになるでしょう。』
自分の行いについて目安となるのが『めやすぼし(=目安星)』です。もし見えないのなら内省し、心魂を磨く努力をする必要があるということでしょう。
ところで以前投稿した「短歌の考察その3」(10月2日掲載)の中で、二十八宿の斗宿・天鶏の星官(星座)について触れましたが、その考察が「目安星」と関係があるかもしれません。
※二十八宿の天鶏とは、北方玄武第一宿・斗宿に含まれる星官(星座)で二つの星からなります。
以前の考察を以下に振り返ってみます(詳細は過去投稿をご参照ください)。
『犬啼く庭に連れ立つ金の鳥二羽、舞い来たら社に気を付けよ。』
斗宿に含まれる天鶏の星二つが、狗国か狗の星官の位置に移動するのかも。もし移動した場合は社(=オタマのヤシロ?)に気をつけなさい、という意味ではないか?※狗は犬のことです。
『蛇の住処の中に犬に追われた鳥が見つかったら、チ(地、血)の嵐は一時止むであろう。』
天鶏の星が狗国、狗の星官の場所からさらに移動して、玄武七宿の第六宿室宿(=蛇の住処)の所まで来たら、一時的にチの嵐が収まるのではないか?…このような考察でした。
星が動くなんて突拍子もない考えだったのですが、この「天鶏の星」がもし「目安星」だとしたら話が繋がります。
目安星を見る事ができば星の動きから先の動向が予想でき、困難を乗り越える助けになるかもしれません。
つまり目安星は天からのメッセージであり、加護とも言えると思います。しかしそれには我よしを捨て、心魂を磨かないと見る事はできません。
『あなた達の真に恐れるべきは、地の震え・大地を洗う波・神居山の焔ではない。天から来たる者でもない。ただ、あなた達が作り出してきた未完(不完全)なものにあなた達が飲み込まれる事です。』
先日、草津白根山で起こった噴火は死傷者も出てしまい大変痛ましい災害でした。
今後も地震や津波や噴火が起こるかもしれません。それは私達にはタメシ(試練)かもしれません。同時に地球が生きて活動している現れでもあります。
あまりにも大きな力で、私達にはなす術がないこともあるでしょう。でもそうした時にも困った者同士で助け合える世の中であるといいですね。
少しの心の余裕や、譲り合い・お陰様の精神が解決できることも沢山あります。そこからでも始めてみませんか?和して助け合う事を忘れずにいたいですね。
【ヤタについて】
天鶏(金鶏)は天上の鳥であり、その鳴き声は太陽に住む鳥を目覚めさせるといわれます。太陽に住む鳥とは、金烏(きんう)もしくは八咫烏のことです。
これらの鳥については、中国の伝説と日本の神話が混じり合い、同一の鳥と言われたり別の鳥とも言われますが、いずにしても太陽と関わりのある鳥とは言えると思います。
ところで八咫烏(ヤタガラス)の「八咫」の字は、大きさを示す意味とするのが定説です。
しかし本当にそうでしょうか?
「八咫」のつくものと言えば八咫烏の他に「八咫鏡」があります。八咫烏と八咫鏡はどちらも太陽(天照大神)と関わりがあります。
持論なのですが「八咫」は「太陽(天照大神)」も意味する言葉なのではと考えています。
那佳智加楽月珠様は最後に仰いました。『めやすぼしが多くの者の目の前に現われん事を願います。ヤタミツクリノヒ。』
「八咫御造りの火(一)」、つまり目安星は、太陽(八咫)が御造りになる火ということではないでしょうか。
目安星が太陽の火で作られたなら、きっと一際明るく、他の星とはすぐに区別がつくでしょう。
目安星は天鶏の星かもしれないと考察しましたが、天鶏の星のある場所に現れて、後に移動していくという事なのかもしれません。
一方で目安星が見えない人には、ただいつもと同じ天鶏の星が見えるだけです。
天鶏の星は西洋の星座で言うと射手座の中にあります。冬には日中に空にあるので見えませんが、もし太陽の火のような明るさであれば、昼夜問わず見つけられるでしょう。
また、『ヤタミツクリノヒ。』の『ヒ』は「一」と掛けてあると思います。
漢数字の「一」がなにを意味するのかまだわかりませんが、「記憶のお告げ」の『めやすぼし』以降のお告げは(伏せられているものも含め)カタカナの言葉で締めくくられていて、それぞれ数字が入っていると想像します。
もしかしたら、数字はおばあちゃんが見た地図と関連があるかもしれません。
そうなると、『ヤタ』は掛け言葉で、地名や神様の名前(神社)などの可能性もありますが、具体的な場所についてはまだ考察が必要です。
おばあちゃんへ
いつもお告げを伝えて下さりありがとうございます。先日は噴火もあり、ご心痛もあるかと思いますが、どうぞお一人で背負おうとはなさらないでださい。
微力ではありますが私も考えてみますし、サイトに集う方がたを始め、皆で乗り越えていきましょう。お身体が心配です。ご無理のないようになさって下さい。
しろさんへ
先日はコメントありがとうございました。
私は『イチの重なる年』=2011年だと思っており、想像してみた「架け橋暦」に当てはめるなら、やはり縦糸のイチと横糸のイチの交点になるのかな、と考えています。
ただ考察した「架け橋暦」はあくまで想像ですし、どのような組立の暦かで導き出される年は変わると思います。
一案としてご参考いただければ幸いです。
余談ですが、2011年がイチの重なる年と思ったのは、西暦や震災のあった日付(3月11日)に数字の「11」があるからではありませんした。
『チ(地)とウミ(海)が混じり合った』のが近年では2011年だったからです。
『イチの重なる』には、何か他にも意味があるのではと考えていて、もしかすると意味は一つではないかもしれません。
「かけはしごよみ」(10/22、1/12掲載)の考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:1月18日(木)
「記憶のお告げ」(10月22日、1月12日掲載)の巻物の一つ目『かけはしごよみ』(時白砂様)について考察します。
【コノ先の八月について】
『今年も月の暦では八月なれど、コノ先の八月、全てのものが揺れ動くぞ。変わるぞ。コノ先とは、1つ先とは限らぬ。八月は文字通り取るなよ。』
『月の暦』は月の満ち欠けを基にした暦(太陰暦)のことで、旧暦(太陰太陽暦)も基本は同じです。※私達が普段使っている新暦は太陽暦です。
時白砂様の仰った意味が「2017年では旧暦八月にあるけれど別の年では八月にあるとは限らない日」だとすると「寒露(かんろ)」が該当します。
寒露は二十四節気の九月節で、新暦だと10月8日頃。旧暦に換算すると八月後半~九月前半になります。
2017年の寒露は旧暦8月19日だったので、時白砂様が仰ったように月の暦では八月にあったことになります。
近年の寒露の日付は下記のようになります。
【近年の寒露】
★は寒露が旧暦八月にある年
2017年 新暦10月8日/旧暦8月19日★
2018年 新暦10月8日/旧暦8月29日★
2019年 新暦10月8日/旧暦9月10日
2020年 新暦10月7日/旧暦8月21日★
2021年 新暦10月8日/旧暦9月3日
2022年 新暦10月8日/旧暦9月13日
2023年 新暦10月8日/旧暦8月24日★
2024年 新暦10月7日/旧暦9月5日
2025年 新暦10月8日/旧暦8月17日★
上記より、2018年の寒露も旧暦八月にありますが、『1つ先とは限らぬ。』とありますから、2018年に限らず、2020年、2023年、2025年、またそれ以降の該当する年の寒露に『全てのものが揺れ動く』可能性があるのかもしれません。
出来事としてはやはり地震や津波がまず考えられますが、経済や人の内面など目に見えないことも含まれそうです。
つまり世の中全体が揺れる対象となるのではないでしょうか。
【フジ(ニニ)ついて】
時白砂様から「フ(二)ジ(二)」について詳しく説明がありました。
『…二と二、すなわちフ(二)ジ(二)、又と無き無二の「不二」、消える事無き「不死」、大いなる方と人の子の結びは「父子」、お山は「富士」、草木は「藤(フジ)」。「藤」は「トウ」で「十」。』
一見謎めいた文章ですが、例えばある「人物」についての説明と考えると筋が通ります。
その「人物」は、
・2人といない無二の存在(=不二)
・寿命のない方、つまり神様である(=不死)
・大いなる方と父子の関係である(=父子)
・木花咲耶姫との縁(つまり皇族との繋がり)がある(=富士)
・藤(おそらく藤原氏のこと)との縁もある(=藤)。※藤原氏の説明は割愛しますが、昔から朝廷と深い関わりのあった神別氏族です。
上記をさらに解釈すると、その「人物」は皇族と藤(藤原氏)の両家を親として生まれ、人の子であるが、実は神でもある方(大いなる方の御子)、と言えます。
人であり神である人物。つまり、記憶のお告げの巻物『まちびと』にでてくる方のことだと推察します。
『この国はフジにご縁のあるお土地、ハヤク気付けよ。』
「かけはしごよみ」に出てくる『二の重なる年』も言い換えれば「フ(二)ジ(二)の年」です。もしかすると、この年に『まちびと』がお生まれになるのではないでしょうか?
『まちびと』たる印とは、列挙した様々な「フジ(ニニ)」との縁かもしれません。もし偽神が現れたとしても、フジと縁がないことで区別ができると思います。
『二の重なる年は悲喜入り混じり。』
二の重なる年には悲しいこともあるのかもしれませんが、『まちびと』がお生まれになるとすれば、喜ばしい節目の年とも言えます。
以前「これまでの地上の統治者が役目を終えて地上を離れる時が来る」と考察しました。
もし今後そのようなことになってしまっても、『まちびと』が御生れになることで救いがあるのかもしれません。
『流れ流れてフジ花開く。桜もお山に花開く。』
時が流れ、やがてフジにご縁のある方(=まちびと)が花開く(生まれる)。お山(=富士山)の桜とは木花咲耶姫の事で、花開くとは「咲く」こと。
「咲」という漢字には元々「笑う」という意味がありますから、喜びの気持ちが伝わります。
ところで、フジの話の最後に「藤」が出てきて、「藤」の音読みから「十」が導かれます。
なぜ唐突に「十」が出てくるのか?についてですが、時白砂様によると『十は波(七三)が合わさる姿。』という事でした。
恐らく神様方が仰る「波」とは、ある作用の比喩と思われます。
つまり二つの作用が合わさり物事が表面化する象徴が「十」と言えるのだと思います(隠れた物事が明らかになる印が十)。
この十の論理をフジ(ニニ)の話にあてはめると、十=明らかになる事柄は大いなる方の子が出現することだと予測できましたので、そこから逆引き的に「皇族(=富士)」と「藤原家(=藤)」が現世の両親を意味するのだと導き出しました。
「富士」と「藤」の二つの家系にある男女が夫婦となることは、言わば二つの波が合わさるような事。波が合わさる姿の十とは、この場合子供の誕生を指すと思います。
余談ですが、山は草木を育む神聖な場所という性質から母性を連想させます。
もしかすると『まちびと』の両親のうち、母御の方が皇族(=富士)家系の方になるのかもしれないですね(もちろんこれは憶測ですが)。
【架け橋暦について】
『かけはし』とは、一方と他方を繋ぐという意味ですから「架け橋暦」は、今の世と次の世を繋ぐ暦ということになるでしょう。
架け橋暦がどんな暦かがわかれば、いつが節目の年になるのか時間軸が見えてくるはずです。
「記憶のお告げ」が伝えられる前に、波の女神様が『…つき(次、か、月)の世の理(ことわり)について伝えに行きます。』(10月17日掲載)
と仰っていましたので、やはり「架け橋暦」は「次の世の理」を説明する暦と言えそうです。
そして「月」とも関連があるのかもしれません。これらを踏まえて「架け橋暦」を想像してみます。
『始まりの数字から終わりの数字にアイ成れり。十は波(七三)が合わさる姿。七と三を合わせて十。タテの糸(一十)とヨコの糸(一十)を合わせて十。』
上記から、縦糸が一から十、横糸が一から十あって、縦と横の交点がそれぞれ年を示す。そのような暦だと仮定します。
『無から有、はじまりは黎、黎は霊、霊の七三(ナミ、波)から生まれるイチとイチ、イチイチ合わさりて二と二、…』
はじまりの黎(霊)から波が生じ、縦糸の一と横糸の一となる。なので黎は縦糸の一と横糸の一の隣にあるが、各糸と交差する事はありません(図を参照)。
波は黎から次々と生じ、二の糸、三の糸、…となっていく。十の糸までいったら終わり。波で言えば十は波が寄せ切った状態で、十までいったら逆に九、八、…と折り返す(波が引いていく状態と同じ)
この暦の縦糸の一(イチ)と横糸の一(イチ)の交点が『イチの重なる年』であり、『チとウミの入り混じりありたこと覚えておろうが。』とあることから東日本大震災のあった2011年をあてはめます。
『ハジマリはオワリから、オワリからはハジマリへ』
縦糸一と横糸一の交点である2011年を起点とし、横糸の一が縦糸の一から十に向かって交差して進む。横糸一が縦糸十と交差したら横糸は二番目に移り、今度は縦糸の十から一に向かって進む。このような順で暦が巡って行くと仮定します。
イメージとしては機織りのように縦糸に対して横糸が行ったり来たりする動きです。
これをもとに、2011年以外の年も当てはめます。
上記から、
・『二の重なる年』は縦ニと横ニの交点→2029年(水色の欄)
・『サンの重なる年』は縦三と横三の交点→2033年(水色の欄)
となります。
赤色の欄は、縦横の数字を合わせると「十」になる年です。2つの作用(波)が合わさり、何か物事が明らかになる年かもしれません。
2037年(明るい赤色の欄)は「十」の年のうち「ナミ(縦七と横三)」の交点なので、特に意味がある年かもしれません。
2043年(緑の欄)は「ハシ(縦八と横四)」の交点です。
時白砂様が以前詠まれた短歌『ときつなみ ひかりのなみと まじわりて あたらしきみよ はしよりひらく』(2017年10月10日掲載)の『はし』が『八四』を意味するなら、2043年と関連があるかもしれません。
『天の節目は必ずキチンとした年になるものなり。天と和すれば天の時が正しき時となる。天の時はキチンとした数がその時なり。良く考えられよ。』
『キチンとした年』がどういう意味であるか、まだわかりません。
月との関係かと思い調べてみると、『二の重なる年』かもしれない2029年には、1月1日(新暦の元旦)に皆既月食があり、『サンの重なる年』かもしれない2033年には、10月8日にスーパームーンになるかもしれない皆既月食があるようです。
そして「ナミ(縦七と横三)」の交点である2037年には、今年と同じように ひと月で2度目の満月(1月31日)があり、それは皆既月食になるようです。※月食とは太陽、地球、月が一直線に並ぶ現象
ただ月食は他の年にもあるので、月食があるからと言って『キチンとした年』の決め手とは言えません。月食以外の別の印が他にあるのかもしれないし、そもそも想像した暦が正しくないのかもしれません。
ただ、起点となる2011年には興味深い点が見つかりました。
それは2011年の節分2月3日が旧暦の一月一日だったことです。旧暦の一日は常に新月なのですが、2011年2月3日は月齢0の新月であり、節分という節目の日に変わる頃にちょうど新月になったことになります(ぴったり0時ではないのですが)。
現時点で私が「架け橋暦」について推測できることはここまでです。
ところで、以前にも別の『ニの重なる年』の解釈を考察しました。
以前の説では『一の重なる年』を説明できないのですが、案として以前の説も保留にしています。
(以前の説だと、節分は2月2日→二の重なる年、3日→サンの重なる年はあるが、1日→イチの重なる年はないのでつじつまが合わない)
1つ疑問に思うのは、波の女神様と時白砂様の仰る『二の重なる年』は同じ年を指すのかどうか?という事です。同じと考えるのが当然かもしれませんが…。
以上曖昧な箇所もありますが、ご参考までに投稿します。
1月7日掲載の夢見の考察
投稿者:チョココロネ さん
投稿日:1月13日(土)
2日の夜にまた夢見があった(1月7日掲載)の考察
みひろんさん、おばあちゃん、お礼が大変遅くなりましたが先日は質問にお答えいただきありがとうございました。興味深く拝見しました。
また「記憶のお告げ完全版」も大変な作業をしていただき恐縮です。とても難しいのですが、考察をこれからも頑張りたいと思います。
今回は1月7日掲載の短歌「ななからや つきかくるひに うごきたる おわりならずも こい(ひ?)のみきこゆ」(白装束の君より)について考察を送ります。
これ以前の考察はまだしておらず投稿順が前後しますが、ご了承下さい。
『七からや 月隠る日に動きたる 終わり(/尾張)ならずも 乞ひ祈み聞ゆ』
意味:七から(七つ時?)からだ。月が隠れる日に動く事は終わりではない。神に強く祈る声が聞こえる。
考察:・七つ時→午前4時、または午後4時 ・こひのむ(乞ひ祈む・請ひ祈む)→神様に強く願い祈る
月が隠れる日に何か動きがあり、それはその時だけでは終わらないという内容です。『七からや』とあるので「月が隠れる日の七つ時からだぞ」ということではないでしょうか。
七つ時とは、現在の時間で言えば午前4時かまたは午後の4時です。
『月隠る日』とは月食の事ではないかと思います。今月1月31日から2月1日にかけて、日本では皆既月食が見られます。
白装束の君がおばあちゃんに赤く光る竹の節を見せてこの短歌を詠まれました。皆既月食で地球の影が月を隠す時、月は見えなくなるのではなく赤銅色に染まります。
この皆既月食が見える1月31日または2月1日の午前または午後4時頃に何か動きがあるのかもしれません。地震ではないでしょうか。
地図に浮き出た場所を注視すべきと思います。
おばあちゃんの夢見では、大きな波の音と潮の香りがしたという事なので、津波の可能性も強いと思います。それは山の方まで届く規模の大きなものかもしれません。
また、『おわりならずも』は「尾張ならずも」とも読めます。尾張は愛知県西部あたりです。
そこがまず動くとして、そこだけではなく別の場所も続いて動くという可能性が読み取れます。
今年2018年は7月28日にも皆既月食がありますから、もしかしたら1月31日の事ではないのかもしれないし、そもそも今年のこととも限らないのですが、今年は1月2日にスーパームーンがみられ、今月2回目の満月も2日に次いで大きく見える月であり、しかも皆既月食です。なにか気になります。
ちなみに7月28日に起こる皆既月食は、逆に最小の満月の時となります。
この時は午前5時20分頃に満月となりますから、午前の七つ時(4時)に時間的に近く、こちらも気になります。
夢見の山の景色はどくだみが咲いていることからも6月以降~と思えるので季節的にも近いですし。
歌の最後に、神様に強く祈り願う声が聞こえることからも、深刻なことが起こるのではと思わずに要られません。
いつ「動く」にしても心構えが必要ですし、できるならば事が起きてから「乞ひ祈む」のではなく、今から皆で和して祈る事が大事かと思います。
また、以前の考察から「冬の晦日」を気にしています。
今月の皆既月食1月31日も新暦の晦日といえるのですが、旧暦が気になります。
1月16日(旧暦11月30日)、2月15日(旧暦12月30日)もしくは節分の2月3日かもしれませんが、何もなく平穏に過ぎて欲しいと願うばかりです。
チョココロネさんの考察によると、2月中旬頃までが要注意期間のようです。
おっしゃるように、いつ大難が起きても可能な限り小難に出来るように、日頃の備えと心構えが非常に大切だと思います。
夢見の続き(10月10日掲載)についての考察
・玉手箱について
おばあちゃんが開けた玉手箱について考察します。玉手箱は三重の入れ子になっているので、それぞれの箱は順番に起きる物事を示すものと推測します。(どれかが起きる、ということではなくて、箱が開く毎に3段階に物事が起きる)
以前に、玉手箱が開くと大変革が起きるという内容のお告げ「まことの土の辰降りて~」(時白砂様より)がありましたが、おばあちゃんの夢見はその様子を見せられたものだと思いました。
おばあちゃんが玉手箱を開ける前に女性の声で「目の見える者には見えず、見えた者でも理解できぬ物を見せましょう。」とあり、1つ目の箱を開けると世界が上中下の3つに分かれ、上と下には色付けがされました。
私達のいる世界(現世)が真ん中で、色付けされた上下は、私達には普段見えていない別の世界を意味するのではないでしょうか。
元は繋がっていた上中下の3つの世界。やがて上下は離れて行きますが(上下の世界と一旦切り離される?)、その後上下が再び近づいてきて、3つが重なると、大きな音と共に強い光が出る。これは将来3つの世界が合わさって1つになるという事かもしれません。
二つめの箱が開くと真っ暗になり、気がつくと周囲の地形が大きく変わっていた。これは「驚くなかれ 玉手箱 土海空も七変化」(時白砂様より)と詠まれた世界の大変革の光景に思えます。
以前の「みつしおの~」の短歌を聞いた後におばあちゃんが見た光景とも似ていますね。おばあちゃんはその時も暗闇になってお祈りをしていると、その後光の世界に包まれて嬉しい気持ちになり、嗅いだことのない花のような良い香りがしたと語っていました。
暗闇を意味する(暗示する)内容が、これまでのお告げに何度か出て来ています。
・「みつしおの いわおかくるる かんなづき さっきやよいの はつきなかつき」→長月(=夜の長い時)
・「つぎなるの つきかげくらみ きえゆれど あかりともせば みよはかかやく」→月影暗み消えゆれど
・「うましとき たまよりいずる たまてばこ あけておふでし ひらけてうれし」→開けて覆うでし(=玉手箱を開けて(煙など?に)覆われる、つまり何かに覆われることで辺りが暗くなる)
おばあちゃんが夢で見た光景やこれらの短歌は関連があるとして、二つ目の玉手箱が開くと世界が一時的に暗闇に包まれるものと考えられます。
一つ目、また二つ目の箱が開いた後の光景を考えれば、将来世界に凄まじい大変革があることが予想されます。
数々の「タメシ」が今後私達に与えられると予想されるのですが、その後に起こるであろう大変革こそ、もしかしたら大峠の最終段階なのかもしれませんね。
しかし、それを乗り越え光の御代を迎えられるように、私達は和して進んで行かねばならない、そう思います。
時白砂様が現れて「時白砂、ときしらず。ときのうずはいまだ定まらず、ただ、みこころのみに従うものなり。」と仰りました。
どの段階を指すのかわからないのですが、時はまだ定まっていないということでしょう。(夢見のあったこの時点では)
時白砂様が詠まれた短歌「時津波(/七三) 光の波(/七三)と 交わりて 新しき御代 端より開く」
意味:時の波 と光の波とが交わって、新しき御代が端より開く
考察:「時津波」は良い時の波(良いタイミングの波、好機の波)の意味です。「光の波」は大いなる方から寄せられる波という意味でしょう。
新しき御代とは、以前の考察にもあった光の世(神様の御代)の事でしょう。
御代が開く「端」は掛詞で、一つは、以前考察した天と地の境目(=端)と思われます。
もう一つは、時間に関係した「端」です。時白砂様は暦と深い関わりのある神様ですから、暦の端といえば、始まりの正月か、終わりの大晦日を指すのだろうと考えられます。つまり、立春か節分です。
この句でわかることは、時の波と光の波が交わる時に新しい光の世が天地の境目から開き、それは年の始まり(立春)か終わり(節分)である、ということです。
ただ、「いつの年」の始まりまたは終わりかはこの時点では定まっていない?と思われます。
※以前に2048年2月4日~2049年2月2日を光の御代が始まる年と考察したのですが、これは玉手箱が開く時であって、光の御代が始まるのはもう少し先なのかもしれません。
波は七三とも読めます。
10月22日に掲載された「かけはしごよみ」の巻物(時白砂様より)では、波(七三)が合わさると、十になるとあります。
この句では時津波(七三)と光の波(七三)の二つの波が合わさるので、二十(廿*)になると思います。
*十に縦糸(|)と横糸(ー)を足しても廿(二十の漢数字)になります。
※この二十(廿)の解釈はまだ検証中です。解釈が筋の通るものかどうか、通るとすれば何を意味するかについては、まとまりましたら追って考察を投稿したいと思います。
・「かんろ…」について
30代くらいのみひろんさんがお姫様のようなお着物で現れて、おばあちゃんに「かんろ」と伝えたという夢。もしかして将来みひろんさんは、神様のお使いになられるのでしょうか。
「寒露」は二十四節気の9月節で、新暦だと10月8日頃。
旧暦(太陰太陽暦)に換算すると8月後半~9月前半になり、今年2017年の寒露は旧暦では8月19日でした。
※「月の暦」と言えば太陰暦のことですが、旧暦の「太陰太陽暦」もまた、月の満ち欠けをもとにした月の暦になります。
のちのお告げで時白砂様から「かけはしごよみ」か伝えられますが、この「寒露」が月の暦(太陰太陽暦)で8月になる年をご留意下さい。
※寒露については、「かけはしごよみ」と合わせて、また改めて考察する予定です。
【近年の寒露】★は月の暦で寒露が8月にある年
2017年 新暦10月8日/旧暦8月19日←今年
2018年 新暦10月8日/旧暦8月29日★
2019年 新暦10月8日/旧暦9月10日
2020年 新暦10月7日/旧暦8月21日★
2021年 新暦10月8日/旧暦9月3日
2022年 新暦10月8日/旧暦9月13日
2023年 新暦10月8日/旧暦8月24日★
2024年 新暦10月7日/旧暦9月5日
2025年 新暦10月8日/旧暦8月17日★
霧の鳥居前の夢見と短歌(10/7掲載)の考察
霧の鳥居前の夢見と短歌(10/7掲載)の
(1)「あまぎやま かがみうつすは たつのみや はしよりいずる むらさきのくも」
(2)「たなびくは あまのくもじか よみのみち まちたるすくひ にじのきざはし」
の2つの句について考察します。
(1)「あまぎやま~」について
「天城山 鑑写すは 立つの宮(/龍の宮) 橋(階)(/端)より出る 紫の雲」
意味:天城山は、宮から立つ(=出発する)ことを写す鑑である。橋(階)(/端)から紫の雲が現れる。
考察:宮とは、以前の短歌に詠まれた「みやしろ」の事でしょう。「みやしろ」をお立ちになる(=出発される)時に、写し鑑として天城山にお印があるという意味です。
橋(階)(/端)*から紫の雲が現れるとありますが、紫の雲(紫雲)は、尊い方がお立ちになる時にお迎えに来る吉兆の雲です。
おそらく、みやしろに来迎するのでしょう。*橋(階)(/端)については(2)の短歌のところで説明します。
※「たつのみや」は「龍の宮」とも読めます。この句で詠まれている「宮」は、龍穴としても知られる場所です。
(2)「たなびくは 天の雲路(/く文字)か 黄泉の道 待ちたる救ひ(/少比) 虹の階(/兆しは虹*)」*並べ替え
意味:(紫の雲路が)たなびく先は天か、それとも黄泉への道だろうか。虹の階で救済が待ち受けている。
考察:「たなびく」とは、雲や煙が横に長く続く様子の事で、ここでは(1)の句の「紫の雲」を受けています。紫の雲は長くたなびき、雲路となって尊い方を来迎します。
雲路を辿れば雲の起点である「はし」へ導かれることになりますが、この「はし」は掛詞で複数の意味を持ちます。
句にある「虹の階(=虹の階段、または梯子の意)」の階は「はし」とも読み、「はし」の掛詞の一つに当たるのですが、まずは「虹の階」の意味するところから考えます。
古事記には、高天原(天界)と葦原中国(地上)に架かる「天の浮橋(あめのうきはし)」という橋が出てきます。この橋は天空に浮かんでおり、一説には「虹」であると言われています。
また、天の浮橋は、天界(上)と地上(下)に架かっていますから、橋であるとともに上下を繋ぐ階段(または梯子)でもあります。
よって、句に詠まれた「虹の階」とは「天の浮橋」のことだと考えられます。
また「天の浮橋」は天と地の境目、つまり「端」に存在しています。
以上より、(1)の句の「はし」の意味するところは、「橋」であり「階」である天の浮橋、また天の浮橋の位置する天と地の境目である「端」です。
「くもじ」は、「雲路(=雲の路)」と「く文字」の掛詞で、く文字とは神様が出先から帰ること(=還御)です。
尊い方は地上で御生れになりましたが、天孫降臨したニニギノミコトの子孫(天津神の御子)ですから、天に行くことは還御の意味を持ちます。
尊い方が宮をお立ちになる時、紫の雲が来迎し「はし」へと導きます。そこから天の浮橋を渡れば天界への還御となります。
ところが句では天に帰る事は断定されず、天と黄泉への二つの道が記されています。尊い方がどちらの道を進むのかはわかりません。
ですが、「待ちたるすくひ虹の階」と続くことから、「すくひ」が道行きを助けるものと推測されます。
「すくひ」も掛詞です。「待ちたる救ひ(=救済が待つ)」とも読めますが、待つという言葉からして「誰かが待っている」と考える方が自然です。
そこで「すくひ」が名前なら誰か?と考えると、連想されたのは「すくひ→少比→スクナヒコナ(少名毘古那、少比古那)」でした。
スクナヒコナは、一寸法師のモデルともいわれる小さな神様です。大国主と協力して国造りを進めた後に「常世の国」へ帰ったと古事記に書かれています。
「常世の国」とは異界の一つで、永遠の国、理想郷、そして死者の住む黄泉の国と考えられています。
もし尊い方が黄泉への道を選択された場合には、スクナヒコナが助け(=救ひ)となって常世の国へお連れするのではないでしょうか?
【異界について】
古事記には、天界と地上の他にいくつかの異界が出てきます。
黄泉の国、根の国(根の堅洲国)、常世の国はいずれも死者の国と言われますが、古事記の記述からして別々の国と考えられます。
しかし、根の国と常世の国は、黄泉の国であるとも称されるのです。
これは一体どういうことでしょうか?
持論ですが、黄泉の国は経由地(死の過程で訪れる場所)であり、その先に根の国、あるいは常世の国があるという事ではないでしょうか?(←黄泉の国から先は道が二股に分かれるイメージ)
それなら、根の国・常世の国が黄泉の国とも言われる説明がつきます。
根の国については、おばあちゃんのお告げでもたびたび出てきていますが、古事記とお告げから受ける印象として、私達は根の国と現世の行き来を繰り返し、現世に来る度に魂を磨く努力をする(例えるなら修行)。
そして魂を磨き終えた者だけが、最終的に常世の国に行けるのではないでしょうか。
常世の国は永遠の国であり、理想郷です。そこにふさわしい魂だけが行くことを許されるように思えます。
尊い方は大変なお役目を終えられ、磨かれた魂をお持ちになって地上を立たれます。
ですから、もし尊い方が黄泉に向かうとすれば、行き先は常世の国ではないかと思えるのです。
句の考察に戻ります。
「虹の階」は天の橋立のことだと考察しましたが、並べ替えると「兆しは虹」となります。
(1)で、尊い方がお立ちになることを写す鑑が天城山であると詠まれていました。天城山にお印が現れるとしたら、それは虹なのかもしれません。
また「はしよりいずる」が天城山に現れる兆し(お印)にも掛かるなら、虹は天城山の端(先端か、山の端)で見られるのではないかと予想されます。
【まとめ】
・尊い方がみやしろをお立ちになる時、お印として天城山に虹が現れる。
・尊い方は天に還御されるか、または常世の国へ行かれる。
(1)(2)の句は、以前詠まれた「みやしろに~」「もみじなく~」の2句から続く内容です。4つの句を並べると、起承転結のようになります。
・起:「みやしろに~」→みやしろから「たま」が奪われる
・承:「もみじなく~」→尊い方(天津神の御子)が地上を治めるお役目を終える時が来て、「行き(地上を離れること)」が解かれる。赤城山にそのお印がある(冬なのに雪が溶けること)。
・転:「あまぎやま~」→尊い方が宮を出発される(→「行き」が正に行われる)。天城山にそのお印がある(虹?)。
・結:「たなびくは~」→尊い方が地上と天(また黄泉)の境目である端に導かれ、いよいよ地上を後にする。
この一連の流れはとても丁寧に詠まれていました。それだけに、尊い方が地上を離れるということの重大さが伝わって来ます。
地上に生きるということは、芽生えた葉がいつか落ちるように寿命があるということです。
寿命は花が散るように儚いものですが、地上を出て魂の国にお出でになる(または故郷にお帰りになる)ことは喜ばしいことでもあります。
一方、尊い方が地上を離れるということは、地上にいる私達にとっては統治者を失い、今まで受けていた加護を失うということです。
尊い方が地上をお立ちになると、いよいよ大峠に向けて世の中が進んで行くことになると思います。
【キンモクセイと桜について】
おばあちゃんが、お告げを受けた時に霧の鳥居に見えたキンモクセイ(木犀)と桜について考察します。
古代、中国から日本へ様々なものが伝わりました。漢字や暦など。木犀の木も中国原産です。
古事記には桂(ゆつかつら)の木が何度か出てきます。普段私達が目にする桂の木は落葉樹ですが、中国では桂は木犀のことを指します(例.桂花陳酒はキンモクセイのお酒です)。
古事記が書かれた当時は中国の影響が色濃い時代ですから、桂は木犀を意味していた可能性が高いです。
古事記によると、山の神様の娘である木花咲耶姫は、地上に降臨した天津神のニニギノミコトと結婚して子供(天津神の御子)を産みます。
子供の一人である山幸彦は、ある時海を越えて綿津見神(海神)の宮殿に行くのですが、宮殿の前に生えていたゆつかつらの木に上っている時に、海神の娘である豊玉姫と出会います。
山幸彦と豊玉姫の二柱の神はその後結婚し、産まれた子もまた天津神の御子と言えます(天津神ニニギノミコトの孫なので)。
こうしてニニギノミコトの子孫は代々天津神の御子として地上を統治していきます。(ちなみに山幸彦と豊玉姫の孫の1人は初代天皇の神武天皇です)
豊玉姫と木花咲耶姫は天津神ではありませんが、天津神の御子を産んだ母神として、その子孫にも深く関わる存在です。いわば大いなる母と言えるでしょう。
ところで、豊玉姫にとってゆつかつら(木犀)は、山幸彦との出会いの象徴ですし、桜は言わずと知れた木花咲耶姫の象徴です。
お告げでキンモクセイと桜が出てきたのは、豊玉姫と木花咲耶姫が天津神の御子(これから宮を立たれるであろう尊い方のこと)を思う親心が現れたものだと、私は感じました。
ところで桜は落葉樹なので、芽生えた葉はやがて落ちます。これは寿命を暗示します。地上に住むものには寿命があり、木花咲耶姫の子孫も例外ではありません。
一方、木犀は常緑樹で常に緑の葉を保ちます。こちらは永遠を暗示していないでしょうか?(桜も木犀も花の期間は短く、儚く散る/落ちるのは一緒なのですが、葉に関しては対照的です)
豊玉姫の住む海の向こうの国(綿津見神の国)は龍宮とも称されます。
浦島太郎のお話に出てくる龍宮城のモデルなのは恐らく間違いないでしょう。龍宮城にいる間、浦島太郎は歳をとりませんでした。
それはつまり、龍宮が寿命のない永遠の国(=常世の国)であることを意味するのではないでしょうか?
したがって、豊玉姫の住む国、ゆつかつらの生えるその国は、常世の国ではないかと思われるのです。
尊い方にとって天界は大元の故郷であり、地上は生まれ故郷であり、そしたまた綿津見神の国(=常世の国?)もまた母なる国と言えます。
尊い方は地上を立たれた後、どの場所へ向かわれるのでしょうか。
長くなりました。おばあちゃんの受けるお告げは段々と具体的になっていますね。お告げが具体的なのは早く気付かせるためでしょう。
それだけ、来るべき時が近いということです。緊迫感を感じています。
11月27日から、ついに神在の祀りが始まりました。
大国主命と全国から集まった八百万神によって、出雲大社で今まさに「むすび(縁結び)」の会議が行われているところだと思います。
これから先も世の中が平和でありますように、皆さんで和して祈りましょう。和して祈ればきっと神様に願いが伝わります。どうぞ宜しくお願いいたします。
おばあちゃんのイメージ(10/5掲載)について
・「大きな蜘蛛が通路を逃げる」について
先日「みやしろに~」の短歌を、『宮城から「たま」が、盗人(曲者)によって密かに、また月末に奪われる』と考察しましたが、「蜘蛛」とは、この盗人のことではないかと思いました。
「たま」を奪った盗人は、おばあちゃんのイメージの蜘蛛のように通路(隠れた抜道?)を通って逃げるのでは。
蜘蛛の進む通路の先には手引き案内する者がいるということなので、盗人には協力者がいるという事かもしれないです。(組織的な犯行の可能性)
・「策」「乱」「女」について
3つの文字は、上記の「蜘蛛」の一件に関わることかと思います。ただ、この「女」が犯人か被害者かは、単語だけでは判断がつきません。
つまり、「女」は、「たま」を奪うという策略によって、世の中を乱す犯人または、
「女」は、策略によって「たま」が奪われたために、乱れて(混乱して)しまう被害者の両方の解釈ができます。
この「女」が誰を指すのかについては、現時点では断定できません。
お告げ(10/5掲載)について
お告げ(10月5日掲載)にある二つの短歌
「みやしろに ぬすびとのこえ そよきこゆ うばひたるたま あなみそかなり」
「もみじなく ゆきのとけたる あかしやま こがらしふきぬ あかもしろとて」
について考察します。
(1)「みやしろに~」の短歌について
「宮城に 盗人の声 そよ聞こゆ 奪いたる玉(/魂) あな密か(/三十日)なり」
意味:宮城に盗人(曲者)の声がかすかに聞こえる。ああ、何て事だ!密かに玉が奪われてしまう(月末に奪われる)。
考察:※「みやしろ」を御社(神社)、「たま」をその神社のご神体の玉として考察することもできますが、ここでは「みやしろ=宮城」として考察します。
・宮城(みやしろ、きゅうじょう):皇居の以前の呼び名
・盗人:泥棒、曲者、したたか者
・密か(みそか):ひそかに、こっそりと
・三十日(みそか):月末、月の最後の日
句では、宮城(=皇居)から玉が「みそか」に奪われる、とあります。みそかは「密か」と「三十日」の掛詞であり、ひっそりと、また月末に奪われると読めます。
皇居で奪われる玉とは、おそらく「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」のことでしょう。
八尺瓊勾玉は、唯一皇居に保管されている三種の神器の一つです。天孫降臨でニニギノミコトが地上に降り立つ時に、天照大神から授けられました。
八尺瓊勾玉を含めた三種の神器を受け継ぐことは、皇位継承の証です。万が一何者かに奪われるとしたら大変なことです。
句ではまた、盗人の声が皇居からかすかに聞こえるとあります。仲間と奪う算段でもしているのでしょうか?
「盗人」には、曲者(=怪しい者)という意味もあります。外部から忍びこむのはかなり難しい場所であるはずですが、盗人の正体も気になるところです。
ところで、八尺瓊勾玉は箱に入れられています。箱を開いて中を見ることは厳しく禁じられており、誰も、歴代天皇の方々でさえも八尺瓊勾玉を実際にご覧になったことはないそうです。
ただ、過去に冷泉天皇が箱を開けようとしたことがありました。結果として未遂に終わりましたが、箱を開けようとした時に中から白い煙が出てきたそうです。
この話は、おばあちゃんの「玉手箱」の話を彷彿とさせませんか?
(2)「もみじなく~」の短歌について
「紅葉(もみじ)なく 雪の溶けたる 赤し山 木枯し吹きぬ 赤も白とて」
意味:紅葉(もみじ)のない雪解けの「赤し山」に木枯しが吹く。赤なのに白だと言って。
考察:「赤し山(=赤い山)」と呼ばれる山では、すでに赤い紅葉(もみじ)の季節は終わっています。雪解けの山にはまだ雪が残っていて白く見えるので、木枯しが「赤い山だと言うのに、雪で白じゃないか」と、からかって吹いていく。という内容です。
この句には、不思議な点が2つあります。
1つは、この句に「雪解け(春)」と「木枯し(冬)」の2つの季語があり、それぞれ意味する季節が異なる点です。
雪は春でなくても溶けることがあるので、恐らく季語は「木枯し(冬)」のほうでしょう。
しかし季節が冬なら、なぜ春と誤解されそうな「雪解け」をわざわざ詠んでいるのでしょうか?
それが2つ目の疑問です。山が白いと言いたいなら、単に雪を詠めばいいですし、そもそも冬なのに雪が溶けているとはどういう状況なのでしょうか?冷たい木枯しが吹いているので気温が高いとは考えにくい。
とすると、地熱が高いなどの理由で溶けているのではないでしょうか。(雪山に溶岩が流れ出て、赤く白いという解釈もあるかもしれません。)
もう一つの考察です。
「椛(もみじ)泣く 行きの解けたる 証し山 木枯し吹きぬ 赤もしろ(白/城)とて」
意味:椛が泣いてる。「行く事」が解かれた証しの山では、木枯しが「赤なのに白(城)だ」と吹く。
考察:句では、何かの「証し」となる山を『赤とあるのに「しろ」ともあるじゃないか』とからかって木枯しが吹く、と詠まれています。
このことから山の名前に赤と「しろ」が含まれていると推測され、「しろ」が掛詞とすれば、白と同じ読みの「城」が思い当たります。
つまり、歌に詠まれている山は「赤城山(あかぎさん)」だとわかります。
※一つ目の考察では「赤し山(赤い山)」と呼ばれる山と解釈しましたが、赤城山は、「赤き山(赤い山)」が語源で「赤城山」になった、という説がありますので、どちらの考察でも赤城山が該当します。
もみじの漢字には、紅葉のほかに「椛」もあります。「椛」は木へんに花と書き、葉が花のように見える事を表現した国字(日本で作られた漢字)です。
「椛」を分解すると「木花→木の花」となり、木花咲耶姫を連想させますので、泣いているのは木花咲耶姫ではないでしょうか。
古事記では、天津神(天の神様)のニニギノミコトが地上(葦原中国、日本)を治める役目を受けて天から降臨し、国津神(地上の神様)の木花咲耶姫と出会って夫婦になります。
産まれた子の子孫が天皇となり、代々日本を治めてきました。※天皇が治めるとは、政治に介入する事ではありません。統治者として存在するという事です。
句では「行き(=行く事)が解かれた」とありますが、これは治める役目が終わり、地上を離れるという意味ではないでしょうか?
木花咲耶姫が泣いているのは、その別れを悲しんでいるからだと思われます。木花咲耶姫は国津神ですから、子孫が地上を出てしまえば、遠く離れることになりますので。
そしてもし統治者が地上を離れることになるならば、世の中は不安定になってしまうのではないでしょうか。
以上より考察をまとめると、
・天皇が地上を治める役目を終える時が訪れる。その「証し」が現れるのが赤城山である。
・「証し」とは、赤城山で冬なのに雪が溶けるような何か(地熱の高まり(もしくは溶岩の流出)など?)と思われます。
雪解け水はまた、別れを惜しむ木花咲耶姫の涙なのかもしれませんね。
木花咲耶姫は、火の神、また火山を鎮める水の神とも言われ、富士山に祀られています。
富士山と赤城山との繋がりまではわかりませんが、木花咲耶姫は山の神様の娘であり、赤城山は山岳信仰のお山の一つです。
二つの短歌「みやしろに~」「もみじなく~」を合わせて考えると、宮城から「たま」が奪われる事と、天皇がお役目を解かれて『行く事』とは関係があるように思えます。
このような事が起こるとすれば、時期はおそらく冬のみそか(=月末)で、もしその頃に赤城山で雪が溶けるような『何か』があれば、それは証しであると言えるでしょう。
この句を詠んだ後に女神様が「潮目はまた変わってしまっています。仮初めとはいえ、さんかい(山海?何故かここは平仮名で頭に入った)の和が揺らぐは悲しき事です。」と仰いました。
「さんかい」とは、「三界(=現世、全世界)」のことではないかと思います。
「たま」が奪われることによって、仮初め(=一時的)ではあっても、世の中の和が揺らぐ、つまり乱れるという事ではないでしょうか。
女神様はまた、「神在りの祀りの後、師走より静かにやってきます。はじめは気付く者は気付き、気付かない者は気付かないでしょう。」「助言をしておきましょう。今は大いなるお方の創りたもうた世の美しきものをしかと目に焼き付けておきなさい。」と仰いました。
出雲では、今年2017年は11月27日の夕刻~12月4日夕刻までが「神在りの祀り」の期間となります。
八百万神が出雲に集まり会議を行うこの期間、決議の内容によって今後の日本の(また世界の)行方も左右されるのかもしれません。
・師走について
師走が、旧暦に換算した12月を指すのか、節月の12月(暦を小寒から立春の前日(節分)までで節切りしたもの)かで期間は多少ずれますが、その頃に静かにやってくるものに注視すべきかもしれません。
「やがて来たりし時」と「ニの重なる年」の補足
11月3日に掲載していただいた投稿で、時白砂様の「やがて来たりし時」と「ニの重なる年」の年月日を書き出しましたが、それらは現在の暦を節分で区切った(節切りした)ものでした。
文中「旧暦で~」のように書いていたのですが、日付を旧暦に換算したわけではありません。(旧暦に換算すると日付が変わりますが、記述したのは換算していない現在の暦の年月日です)
以前の日本では、立春から節分までが1年でしたので、旧暦というより、節切りの暦から考えた1年、という意味でした。
紛らわしくてすみません。よろしくお願いします。
「二の重なる年」について
10月18日に掲載されたみひろんさん投稿の、「やがて来たる、ニ(2?荷?)の重なる年に注意しなさい。」について、「節分が2月2日の年」と先日考察しました(投稿日10月22日)。
その際、ニの重なる年を書き出したのですが、西暦のまま記載してしまいました。正しくは旧暦に当てはめるべきでしたので、訂正版を再度投稿します。
※旧暦では一年の始まりは立春、終わりは節分となります。
時白砂様の(1)「ひかりやすんず~」の歌では立春が年明けと詠まれていることから、時白砂様から知らされる時は旧暦表示が正しいのだと思います。
改めて、二の重なる年(節分が2月2日の年)を旧暦に照らし合わせると、
1)2024年2月4日~2025年2月2日→辰年
2)2028年2月4日~2029年2月2日
3)2032年2月4日~2033年2月2日
4)2036年2月4日~2037年2月2日
5)2040年2月4日~2041年2月2日
6)2044年2月4日~2045年2月2日
7)2048年2月4日~2049年2月2日
8)2052年2月4日~2053年2月2日
9)2056年2月4日~2057年2月2日
のようになります。この1)~9)の期間は、二の重なる年が4年毎に巡って来ます。
新たな「記憶のお告げ」(9/25)の考察1
原文:「ひらきひらきて ときわすれ、うつつもうつろも ひとしれず、いうにいわれぬ もどかしさ、たつにたたれぬ ふがいなさ、やがてふきたる いぶきうけ、たねあるみたま ひかりもえいず」について考察します。
この歌は、時白砂様が「やがて来たりし時を知らすぞ。」と仰り詠まれた歌の一つ(2つ目)です。
訳:「開き開きて 時忘れ、現も虚も 人知れず、言うに言われぬ もどかしさ、立つ(/辰)に立たれぬ(/祟れぬ) 不甲斐なさ、やがて吹きたる 伊吹うけ、種ある御霊光萌え出ず」
意味:(物事が)次々に起き始まり時間が過ぎるのも忘れ、現実も虚構も人知れず(起きる)。言葉にできないもどかしさ、止めようにも止められない意気地なさ、やがて吹き出す伊吹を受けて、種ある御霊には光(生命力)が萌え出すだろう
考察:これから来る「大峠」について詠まれた内容だと思います。
大峠に入ると、タメシ(試練)が立て続けに起こって時間の過ぎるのも忘れるほどである。また、うつつ(現実)での事も、うつろ(虚構)もひそかに人知れず起こる、とあります。
「うつろ(虚)」は「うつつ(現実)」に対比で使われているので、事実ではないような虚構(偽り、ウソ、デマ)、ゆめ幻のような現実とは思えないようなこと、目に見えない物事などが推察されます。
現実として実感できる事柄の他に、「うつろ」な物事も人知れずひそかに起こって行くということなのでしょう。
これから先、どんなことが起こっていくのか、歌の詠み手は言いたくても伝える事ができずもどかしい気持ちであること、また起こるのを止められない不甲斐ない気持ちであると歌に込めています。
一方で、文中の「たつにたたれぬ ふがいなさ」は、「辰に祟れぬ(→辰年に祟られる)のを見るのが偲びない」という意味にもなります。祟りとは、神仏がもたらす災いの事で、自然災害や疫病などです。恐らく次にやって来る辰年に祟りがあるという事ではないでしょうか。
次にやって来る辰年は「2024年」です。旧暦に当てはめると、2024年2月4日(立春)~2025年2月2日(節分)となります。この旧暦の辰年は「ニの重なる年」の最初の年でもあり*、大峠の始まる時なのかもしれません。
*2020年立春~2021年節分もニの重なる年になるかもしれないのですが、私は大峠の始まりは上記の辰年のような気がします。
歌の続きですが、「やがてふきたるいぶきうけ~」以降は、大峠(度重なる試練の時)を乗り越えた後?のことを伝えていて、神様からの伊吹を受けると、種ある御霊に光が芽生えるとあります。
神様に触れることでパワーをいただく事は日常でもあります。例えば新年に初詣をしたら心機一転、新しい気持ちで今年も頑張ろう!と思えたり、お祭りに参加して活力をもらって元気が出た!など。
そうした時には神様からのパワー(伊吹)を受けて、自分の中にある生命力が奮い立たされているとされます(いわゆる、ハレと褻枯れの考え方)。
歌では大峠を乗り越え、種(磨かれた魂)を持つものには、神様からの伊吹を受けて、自分の中にある生命力が奮い立たされて萌え出すだろう、とあります。(だから辛い時も頑張りなさい、という励ましも含まれていると思います)
新たな「記憶のお告げ」(9/25)の考察2
原文:「まことのつちの たつおりて、はじまるみよは ひかりのよ、いたるみちのり きびしけれど、わしてねぎれば みちはひらけん おどろくなかれ たまてばこ、つちうみそらも ひちへんげ やがてしるべし きんのむなしき、やがてくゆべし いくさむなしき」についての考察です。
この歌は、時白砂様が「やがて来たりし時を知らすぞ。」と仰り詠まれた歌の一つ(3つ目)です。
訳:「真の土の 辰おりて、始まる御代は 光の世、至る道のり 厳しけれど、和して祈れば 道は開けん 驚くなかれ 玉手箱、土海空も 七変化 やがて知るべし 金の虚しき、やがて悔ゆべし 戦虚しき」
意味:真の土の辰が降りて始まる(神様の)御代は光の世である。至るまでの道のりは厳しいけれど、(皆で)和して祈れば道は開けるだろう。
驚くなよ、玉手箱を。土も海も空も七変化のように様変わりする。やがて知るだろう、金が虚しいことを。やがて悔やむだろう、戦が虚しいことを。
考察:「まことのつちの たつおりて」は、干支(かんし)が戊辰(つちのえ たつ)にあたる2048年2月4日~2049年2月2日(次の旧暦の戊辰の年)と推察されます。
干支(かんし)とは、十干と十二支を組み合わせたもののこと。戊辰(つちのえたつ、ぼしん)は、十干の戊は土の陽干、十二支の辰は土の陽支なので、十干と十二支で、同じ「土」の気が重なります。
歌の「まことのつち」は、十干と十二支の気が同じ「陽の土」の比和の時、という事だと思います。
※比和(ひわ):同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。
この戊辰からは、光の御代が始まるとありますので、大峠が終わり?、新しい世に生まれ変わる時なのでしょう。
大峠の始まりが2024年2月4日~2025年2月2日(旧暦の辰年)とすると、大峠は戊辰に至るまで実に24年続くことになります。
長く厳しい道のりだが、皆で和して祈ることで道は開ける。そしてたどり着いた戊辰には「玉手箱」が開きます。
「玉手箱」とは、地上(土)、海、空が生まれ変わる大変革のことなのでしょう。恐らく魂産みの君の「産魂、ムスヒ」の力によるものだと思います。
実際にどのようなことか起こるのか想像もつきませんが、大変革を前にしたら、お金の価値など無意味なことを知るし、戦争も無駄なことだったと悔やむことになるだろう、とあります。
光の御代が始まる戊辰には、私達を取り囲む世界(天地)も、それまでの価値観も、つまり目に見えることも見えないことも、あらゆることが変革の時を迎えて新しい時代に入って行くのでしょう。
だから、お金に振り回されたり戦争なんてすることが、無駄で無意味だと早く気づきなさい、とお告げは伝えているのではないでしょうか?
■まとめ
時白砂様の伝えて下さった「やがて来たりし」時とは
(1)節分
(2)2024年2月4日~2025年2月2日(旧暦の辰年)
(3)2048年2月4日~2049年2月2日(旧暦の戊辰の年)
になります。
(1)「節分」は、いろいろな意味でキーポイントになる気がします。
→節分翌日の立春が「年明け」になることから旧暦を示唆。
→旧暦の節分が2月2日の年は特に気をつける年(二の重なる年)
→疫病を暗示?(起こる災厄のうち特に深刻なのかも)
→今後富士山に現れるお印は節分~立春の頃にあるのかも?
(2)は恐らく大峠の始まり。
(3)は光の御代の始まり(大峠の終わり?)
ところで(3)で玉手箱が開くと、天地が大変革を迎えるようなのですが、これはむしろ大峠よりも大きな動きなのではないでしょうか?どんな風になるのか、まだまだ想像もつきませんが。
・お告げをいただいた時白砂様について。
お名前は「時を知らす」の意味でしょう。「知らす」には、「知らせる」という意味と「治める」という意味があります。つまり時白砂様は「時」を治め、暦と深い関係のある神様ではないかと思います。
「記憶のお告げ」の続き(9/26)の短歌の考察
「記憶のお告げ」の続き(9月26日掲載)の短歌の考察です。
「枯れ葉落ち 小節(小雪)大節/大切(大雪) 乗り越えて 雪と撒かれん 海の潮花」
意味:枯れ葉が落ち、小雪・大雪を越えるように海の潮花(=波の花)が小節・大節を乗り越えても、雪と撒き散らされて区別がつかなくなってしまう
考察:二十四節気で小雪は11月21日頃、大雪は12月7日頃。
海の潮花は波の花のことでしょう。波の花とは、厳冬の日本海側で見られる白い泡状のもので、波に寄せられて海岸に溜まっていたり、風で飛ばされて舞い散る姿は雪のようにも見えます。
おばあちゃんが受けるお告げは、波に乗せて伝えられることが多いですよね。
つまり、この歌の「海の潮花」はお告げの比喩として使われています。
小節=つまらない義理のこと
大節(大切)=重大な事柄、大事のこと
この短歌は季節の風景に掛けて、「お告げ(=波の潮花)を伝えても、似て非なるもの(=雪)に紛れてしまい、区別がつかない。小節を乗り越えるときに散らされて他に紛れてしまうし、肝心の大節(大切)を見過ごして(スルーして)しまっている」と伝えています。
お告げの考察が入り乱れて本意が埋もれているということでしょうか。