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[謎解き]チョココロネさんの考察ページ(1月16日更新)

2018/01/16

チョココロネのイラスト

みひろんさんのおばあちゃんの「海の神様の話」において、説得力のある考察を継続的にご投稿してくださっているチョココロネさん

みなさんからの考察も増えてきたことから、チョココロネさんの考察を掲載するページを作りましたっ!

1月7日掲載の夢見の考察(1月16日) NEW!

投稿者:チョココロネ さん
投稿日:1月13日(土
)

2日の夜にまた夢見があった(1月7日掲載)の考察

みひろんさん、おばあちゃん、お礼が大変遅くなりましたが先日は質問にお答えいただきありがとうございました。興味深く拝見しました。

また「記憶のお告げ完全版」も大変な作業をしていただき恐縮です。とても難しいのですが、考察をこれからも頑張りたいと思います。

今回は1月7日掲載の短歌ななからや つきかくるひに うごきたる おわりならずも こい(ひ?)のみきこゆ」(白装束の君より)について考察を送ります。

これ以前の考察はまだしておらず投稿順が前後しますが、ご了承下さい。

七からや  月隠る日に動きたる 終わり(/尾張)ならずも  乞ひ祈み聞ゆ

意味:七から(七つ時?)からだ。月が隠れる日に動く事は終わりではない。神に強く祈る声が聞こえる。

考察:・七つ時→午前4時、または午後4時 ・こひのむ(乞ひ祈む・請ひ祈む)→神様に強く願い祈る

月が隠れる日に何か動きがあり、それはその時だけでは終わらないという内容です。『七からや』とあるので「月が隠れる日の七つ時からだぞ」ということではないでしょうか。

七つ時とは、現在の時間で言えば午前4時かまたは午後の4時です。

『月隠る日』とは月食の事ではないかと思います。今月1月31日から2月1日にかけて、日本では皆既月食が見られます。

白装束の君がおばあちゃんに赤く光る竹の節を見せてこの短歌を詠まれました。皆既月食で地球の影が月を隠す時、月は見えなくなるのではなく赤銅色に染まります。

この皆既月食が見える1月31日または2月1日の午前または午後4時頃に何か動きがあるのかもしれません。地震ではないでしょうか。

地図に浮き出た場所を注視すべきと思います。

おばあちゃんの夢見では、大きな波の音と潮の香りがしたという事なので、津波の可能性も強いと思います。それは山の方まで届く規模の大きなものかもしれません。

また、『おわりならずも』は「尾張ならずも」とも読めます。尾張は愛知県西部あたりです。

そこがまず動くとして、そこだけではなく別の場所も続いて動くという可能性が読み取れます。

今年2018年は7月28日にも皆既月食がありますから、もしかしたら1月31日の事ではないのかもしれないし、そもそも今年のこととも限らないのですが、今年は1月2日にスーパームーンがみられ、今月2回目の満月も2日に次いで大きく見える月であり、しかも皆既月食です。なにか気になります。

ちなみに7月28日に起こる皆既月食は、逆に最小の満月の時となります。

の時は午前5時20分頃に満月となりますから、午前の七つ時(4時)に時間的に近く、こちらも気になります。

夢見の山の景色はどくだみが咲いていることからも6月以降~と思えるので季節的にも近いですし。

歌の最後に、神様に強く祈り願う声が聞こえることからも、深刻なことが起こるのではと思わずに要られません。

いつ「動く」にしても心構えが必要ですし、できるならば事が起きてから「乞ひ祈む」のではなく、今から皆で和して祈る事が大事かと思います。

また、以前の考察から「冬の晦日」を気にしています。

今月の皆既月食1月31日も新暦の晦日といえるのですが、旧暦が気になります。

1月16日(旧暦11月30日)、2月15日(旧暦12月30日)もしくは節分の2月3日かもしれませんが、何もなく平穏に過ぎて欲しいと願うばかりです。

チョココロネさんの考察によると、2月中旬頃までが要注意期間のようです。

おっしゃるように、いつ大難が起きても可能な限り小難に出来るように、日頃の備えと心構えが非常に大切だと思います。

 

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[1月16日の更新はここまで ですっ!]


 

夢見の続き(10月10日掲載)についての考察

玉手箱について

おばあちゃんが開けた玉手箱について考察します。玉手箱は三重の入れ子になっているので、それぞれの箱は順番に起きる物事を示すものと推測します。(どれかが起きる、ということではなくて、箱が開く毎に3段階に物事が起きる)

以前に、玉手箱が開くと大変革が起きるという内容のお告げ「まことの土の辰降りて~」(時白砂様より)がありましたが、おばあちゃんの夢見はその様子を見せられたものだと思いました。

おばあちゃんが玉手箱を開ける前に女性の声で「目の見える者には見えず、見えた者でも理解できぬ物を見せましょう。」とあり、1つ目の箱を開けると世界が上中下の3つに分かれ、上と下には色付けがされました。

私達のいる世界(現世)が真ん中で、色付けされた上下は、私達には普段見えていない別の世界を意味するのではないでしょうか。

元は繋がっていた上中下の3つの世界。やがて上下は離れて行きますが(上下の世界と一旦切り離される?)、その後上下が再び近づいてきて、3つが重なると、大きな音と共に強い光が出る。これは将来3つの世界が合わさって1つになるという事かもしれません。

二つめの箱が開くと真っ暗になり、気がつくと周囲の地形が大きく変わっていた。これは「驚くなかれ 玉手箱 土海空も七変化」(時白砂様より)と詠まれた世界の大変革の光景に思えます。

以前の「みつしおの~」の短歌を聞いた後におばあちゃんが見た光景とも似ていますね。おばあちゃんはその時も暗闇になってお祈りをしていると、その後光の世界に包まれて嬉しい気持ちになり、嗅いだことのない花のような良い香りがしたと語っていました。

暗闇を意味する(暗示する)内容が、これまでのお告げに何度か出て来ています。

・「みつしおの いわおかくるる かんなづき さっきやよいの はつきなかつき」→長月(=夜の長い時)

・「つぎなるの つきかげくらみ きえゆれど あかりともせば みよはかかやく」→月影暗み消えゆれど

・「うましとき たまよりいずる たまてばこ あけておふでし ひらけてうれし」→開けて覆うでし(=玉手箱を開けて(煙など?に)覆われる、つまり何かに覆われることで辺りが暗くなる)

おばあちゃんが夢で見た光景やこれらの短歌は関連があるとして、二つ目の玉手箱が開くと世界が一時的に暗闇に包まれるものと考えられます。

一つ目、また二つ目の箱が開いた後の光景を考えれば、将来世界に凄まじい大変革があることが予想されます。

数々の「タメシ」が今後私達に与えられると予想されるのですが、その後に起こるであろう大変革こそ、もしかしたら大峠の最終段階なのかもしれませんね。

しかし、それを乗り越え光の御代を迎えられるように、私達は和して進んで行かねばならない、そう思います。

 

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時白砂様が現れて時白砂、ときしらず。ときのうずはいまだ定まらず、ただ、みこころのみに従うものなり。」と仰りました。

どの段階を指すのかわからないのですが、時はまだ定まっていないということでしょう。(夢見のあったこの時点では)

時白砂様が詠まれた短歌時津波(/七三) 光の波(/七三)と 交わりて 新しき御代 端より開く

意味時の波 と光の波とが交わって、新しき御代が端より開く

考察:「時津波」は良い時の波(良いタイミングの波、好機の波)の意味です。「光の波」は大いなる方から寄せられる波という意味でしょう。

新しき御代とは、以前の考察にもあった光の世(神様の御代)の事でしょう。

御代が開く「端」は掛詞で、一つは、以前考察した天と地の境目(=端)と思われます。

もう一つは、時間に関係した「端」です。時白砂様は暦と深い関わりのある神様ですから、暦の端といえば、始まりの正月か、終わりの大晦日を指すのだろうと考えられます。つまり、立春か節分です。

この句でわかることは、時の波と光の波が交わる時に新しい光の世が天地の境目から開き、それは年の始まり(立春)か終わり(節分)である、ということです。

ただ、「いつの年」の始まりまたは終わりかはこの時点では定まっていない?と思われます。

※以前に2048年2月4日~2049年2月2日を光の御代が始まる年と考察したのですが、これは玉手箱が開く時であって、光の御代が始まるのはもう少し先なのかもしれません。

波は七三とも読めます。

10月22日に掲載された「かけはしごよみ」の巻物(時白砂様より)では、波(七三)が合わさると、十になるとあります。

この句では時津波(七三)と光の波(七三)の二つの波が合わさるので、二十(廿*)になると思います。

*十に縦糸(|)と横糸(ー)を足しても廿(二十の漢数字)になります。

※この二十(廿)の解釈はまだ検証中です。解釈が筋の通るものかどうか、通るとすれば何を意味するかについては、まとまりましたら追って考察を投稿したいと思います。

・「かんろ…」について

30代くらいのみひろんさんがお姫様のようなお着物で現れて、おばあちゃんに「かんろ」と伝えたという夢。もしかして将来みひろんさんは、神様のお使いになられるのでしょうか。

「寒露」は二十四節気の9月節で、新暦だと10月8日頃。

旧暦(太陰太陽暦)に換算すると8月後半~9月前半になり、今年2017年の寒露は旧暦では8月19日でした。

※「月の暦」と言えば太陰暦のことですが、旧暦の「太陰太陽暦」もまた、月の満ち欠けをもとにした月の暦になります。

のちのお告げで時白砂様から「かけはしごよみ」か伝えられますが、この「寒露」が月の暦(太陰太陽暦)で8月になる年をご留意下さい。

※寒露については、「かけはしごよみ」と合わせて、また改めて考察する予定です。

近年の寒露】★は月の暦で寒露が8月にある年
2017年    新暦10月8日/旧暦8月19日←今年
2018年    新暦10月8日/旧暦8月29日★
2019年    新暦10月8日/旧暦9月10日
2020年    新暦10月7日/旧暦8月21日★
2021年    新暦10月8日/旧暦9月3日
2022年    新暦10月8日/旧暦9月13日
2023年    新暦10月8日/旧暦8月24日★
2024年    新暦10月7日/旧暦9月5日
2025年    新暦10月8日/旧暦8月17日★

 

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霧の鳥居前の夢見と短歌(10/7掲載)の考察

霧の鳥居前の夢見と短歌(10/7掲載)の

(1)「あまぎやま かがみうつすは たつのみや はしよりいずる むらさきのくも

(2)「たなびくは あまのくもじか よみのみち まちたるすくひ にじのきざはし

の2つの句について考察します。

(1)「あまぎやま~」について
天城山  鑑写すは  立つの宮(/龍の宮) 橋(階)(/端)より出る  紫の雲

意味天城山は、宮から立つ(=出発する)ことを写す鑑である。橋(階)(/端)から紫の雲が現れる。

考察:宮とは、以前の短歌に詠まれた「みやしろ」の事でしょう。「みやしろ」をお立ちになる(=出発される)時に、写し鑑として天城山にお印があるという意味です。

橋(階)(/端)*から紫の雲が現れるとありますが、紫の雲(紫雲)は、尊い方がお立ちになる時にお迎えに来る吉兆の雲です。

おそらく、みやしろに来迎するのでしょう。*橋(階)(/端)については(2)の短歌のところで説明します。

※「たつのみや」は「龍の宮」とも読めます。この句で詠まれている「宮」は、龍穴としても知られる場所です。

(2)「たなびくは 天の雲路(/く文字)か 黄泉の道 待ちたる救ひ(/少比) 虹の階(/兆しは虹*)」*並べ替え

意味(紫の雲路が)たなびく先は天か、それとも黄泉への道だろうか。虹の階で救済が待ち受けている。

考察:「たなびく」とは、雲や煙が横に長く続く様子の事で、ここでは(1)の句の「紫の雲」を受けています。紫の雲は長くたなびき、雲路となって尊い方を来迎します。

雲路を辿れば雲の起点である「はし」へ導かれることになりますが、この「はし」は掛詞で複数の意味を持ちます。

句にある「虹の階(=虹の階段、または梯子の意)」の階は「はし」とも読み、「はし」の掛詞の一つに当たるのですが、まずは「虹の階」の意味するところから考えます。

古事記には、高天原(天界)と葦原中国(地上)に架かる「天の浮橋(あめのうきはし)」という橋が出てきます。この橋は天空に浮かんでおり、一説には「」であると言われています。

また、天の浮橋は、天界(上)と地上(下)に架かっていますから、橋であるとともに上下を繋ぐ階段(または梯子)でもあります。

よって、句に詠まれた「虹の階」とは「天の浮橋」のことだと考えられます。

また「天の浮橋」は天と地の境目、つまり「」に存在しています。

以上より、(1)の句の「はし」の意味するところは、「」であり「」である天の浮橋、また天の浮橋の位置する天と地の境目である「」です。

くもじ」は、「雲路(=雲の路)」と「く文字」の掛詞で、く文字とは神様が出先から帰ること(=還御)です。

尊い方は地上で御生れになりましたが、天孫降臨したニニギノミコトの子孫(天津神の御子)ですから、天に行くことは還御の意味を持ちます。

尊い方が宮をお立ちになる時、紫の雲が来迎し「はし」へと導きます。そこから天の浮橋を渡れば天界への還御となります。

ところが句では天に帰る事は断定されず、天と黄泉への二つの道が記されています。尊い方がどちらの道を進むのかはわかりません。

ですが、「待ちたるすくひ虹の階」と続くことから、「すくひ」が道行きを助けるものと推測されます。

すくひ」も掛詞です。「待ちたる救ひ(=救済が待つ)」とも読めますが、待つという言葉からして「誰かが待っている」と考える方が自然です。

そこで「すくひ」が名前なら誰か?と考えると、連想されたのは「すくひ少比スクナヒコナ(少名毘古那、少比古那)」でした。

スクナヒコナは、一寸法師のモデルともいわれる小さな神様です。大国主と協力して国造りを進めた後に「常世の国」へ帰ったと古事記に書かれています。

常世の国」とは異界の一つで、永遠の国、理想郷、そして死者の住む黄泉の国と考えられています。

もし尊い方が黄泉への道を選択された場合には、スクナヒコナが助け(=救ひ)となって常世の国へお連れするのではないでしょうか?

異界について

古事記には、天界と地上の他にいくつかの異界が出てきます。

黄泉の国、根の国(根の堅洲国)、常世の国はいずれも死者の国と言われますが、古事記の記述からして別々の国と考えられます。

しかし、根の国と常世の国は、黄泉の国であるとも称されるのです。

これは一体どういうことでしょうか?

持論ですが、黄泉の国は経由地(死の過程で訪れる場所)であり、その先に根の国、あるいは常世の国があるという事ではないでしょうか?(←黄泉の国から先は道が二股に分かれるイメージ)

それなら、根の国・常世の国が黄泉の国とも言われる説明がつきます。

根の国については、おばあちゃんのお告げでもたびたび出てきていますが、古事記とお告げから受ける印象として、私達は根の国と現世の行き来を繰り返し、現世に来る度に魂を磨く努力をする(例えるなら修行)。

そして魂を磨き終えた者だけが、最終的に常世の国に行けるのではないでしょうか。

常世の国は永遠の国であり、理想郷です。そこにふさわしい魂だけが行くことを許されるように思えます。

尊い方は大変なお役目を終えられ、磨かれた魂をお持ちになって地上を立たれます。

ですから、もし尊い方が黄泉に向かうとすれば、行き先は常世の国ではないかと思えるのです。

句の考察に戻ります。

虹の階」は天の橋立のことだと考察しましたが、並べ替えると「兆しは虹」となります。

1)で、尊い方がお立ちになることを写す鑑が天城山であると詠まれていました。天城山にお印が現れるとしたら、それは虹なのかもしれません。

また「はしよりいずる」が天城山に現れる兆し(お印)にも掛かるなら、虹は天城山の端(先端か、山の端)で見られるのではないかと予想されます。

まとめ

尊い方がみやしろをお立ちになる時、お印として天城山に虹が現れる。

尊い方は天に還御されるか、または常世の国へ行かれる。

(1)(2)の句は、以前詠まれた「みやしろに~」「もみじなく~」の2句から続く内容です。4つの句を並べると、起承転結のようになります。

:「みやしろに~」→みやしろから「たま」が奪われる

:「もみじなく~」→尊い方(天津神の御子)が地上を治めるお役目を終える時が来て、「行き(地上を離れること)」が解かれる。赤城山にそのお印がある(冬なのに雪が溶けること)。

:「あまぎやま~」→尊い方が宮を出発される(→「行き」が正に行われる)。天城山にそのお印がある(虹?)。

:「たなびくは~」→尊い方が地上と天(また黄泉)の境目である端に導かれ、いよいよ地上を後にする。

この一連の流れはとても丁寧に詠まれていました。それだけに、尊い方が地上を離れるということの重大さが伝わって来ます。

地上に生きるということは、芽生えた葉がいつか落ちるように寿命があるということです。

寿命は花が散るように儚いものですが、地上を出て魂の国にお出でになる(または故郷にお帰りになる)ことは喜ばしいことでもあります。

一方、尊い方が地上を離れるということは、地上にいる私達にとっては統治者を失い、今まで受けていた加護を失うということです。

尊い方が地上をお立ちになると、いよいよ大峠に向けて世の中が進んで行くことになると思います。

キンモクセイと桜について

おばあちゃんが、お告げを受けた時に霧の鳥居に見えたキンモクセイ(木犀)と桜について考察します。

古代、中国から日本へ様々なものが伝わりました。漢字や暦など。木犀の木も中国原産です。

古事記には桂(ゆつかつら)の木が何度か出てきます。普段私達が目にする桂の木は落葉樹ですが、中国では桂は木犀のことを指します(例.桂花陳酒はキンモクセイのお酒です)。

古事記が書かれた当時は中国の影響が色濃い時代ですから、桂は木犀を意味していた可能性が高いです。

古事記によると、山の神様の娘である木花咲耶姫は、地上に降臨した天津神のニニギノミコトと結婚して子供(天津神の御子)を産みます。

子供の一人である山幸彦は、ある時海を越えて綿津見神(海神)の宮殿に行くのですが、宮殿の前に生えていたゆつかつらの木に上っている時に、海神の娘である豊玉姫と出会います。

山幸彦と豊玉姫の二柱の神はその後結婚し、産まれた子もまた天津神の御子と言えます(天津神ニニギノミコトの孫なので)。

こうしてニニギノミコトの子孫は代々天津神の御子として地上を統治していきます。(ちなみに山幸彦と豊玉姫の孫の1人は初代天皇の神武天皇です)

豊玉姫と木花咲耶姫は天津神ではありませんが、天津神の御子を産んだ母神として、その子孫にも深く関わる存在です。いわば大いなる母と言えるでしょう。

ところで、豊玉姫にとってゆつかつら(木犀)は、山幸彦との出会いの象徴ですし、桜は言わずと知れた木花咲耶姫の象徴です。

お告げでキンモクセイと桜が出てきたのは、豊玉姫と木花咲耶姫が天津神の御子(これから宮を立たれるであろう尊い方のこと)を思う親心が現れたものだと、私は感じました。

ところで桜は落葉樹なので、芽生えた葉はやがて落ちます。これは寿命を暗示します。地上に住むものには寿命があり、木花咲耶姫の子孫も例外ではありません。

一方、木犀は常緑樹で常に緑の葉を保ちます。こちらは永遠を暗示していないでしょうか?(桜も木犀も花の期間は短く、儚く散る/落ちるのは一緒なのですが、葉に関しては対照的です)

豊玉姫の住む海の向こうの国(綿津見神の国)は龍宮とも称されます。

浦島太郎のお話に出てくる龍宮城のモデルなのは恐らく間違いないでしょう。龍宮城にいる間、浦島太郎は歳をとりませんでした。

それはつまり、龍宮が寿命のない永遠の国(=常世の国)であることを意味するのではないでしょうか?

したがって、豊玉姫の住む国、ゆつかつらの生えるその国は、常世の国ではないかと思われるのです。

尊い方にとって天界は大元の故郷であり、地上は生まれ故郷であり、そしたまた綿津見神の国(=常世の国?)もまた母なる国と言えます。

尊い方は地上を立たれた後、どの場所へ向かわれるのでしょうか。

長くなりました。おばあちゃんの受けるお告げは段々と具体的になっていますね。お告げが具体的なのは早く気付かせるためでしょう。

それだけ、来るべき時が近いということです。緊迫感を感じています。

11月27日から、ついに神在の祀りが始まりました。

大国主命と全国から集まった八百万神によって、出雲大社で今まさに「むすび(縁結び)」の会議が行われているところだと思います。

これから先も世の中が平和でありますように、皆さんで和して祈りましょう。和して祈ればきっと神様に願いが伝わります。どうぞ宜しくお願いいたします。

 

おばあちゃんのイメージ(10/5掲載)について

・「大きな蜘蛛が通路を逃げる」について

先日「みやしろに~」の短歌を、『宮城から「たま」が、盗人(曲者)によって密かに、また月末に奪われる』と考察しましたが、「蜘蛛」とは、この盗人のことではないかと思いました。

「たま」を奪った盗人は、おばあちゃんのイメージの蜘蛛のように通路(隠れた抜道?)を通って逃げるのでは。

蜘蛛の進む通路の先には手引き案内する者がいるということなので、盗人には協力者がいるという事かもしれないです。(組織的な犯行の可能性)

・「」「」「」について

3つの文字は、上記の「蜘蛛」の一件に関わることかと思います。ただ、この「女」が犯人か被害者かは、単語だけでは判断がつきません。

つまり、「女」は、「たま」を奪うという策略によって、世の中を乱す犯人または、
「女」は、策略によって「たま」が奪われたために、乱れて(混乱して)しまう被害者の両方の解釈ができます。

この「女」が誰を指すのかについては、現時点では断定できません。

 

お告げ(10/5掲載)について

お告げ(10月5日掲載)にある二つの短歌

みやしろに ぬすびとのこえ そよきこゆ うばひたるたま あなみそかなり

もみじなく ゆきのとけたる あかしやま こがらしふきぬ あかもしろとて

について考察します。

(1)「みやしろに~」の短歌について

宮城に 盗人の声 そよ聞こゆ 奪いたる玉(/魂) あな密か(/三十日)なり

意味:宮城に盗人(曲者)の声がかすかに聞こえる。ああ、何て事だ!密かに玉が奪われてしまう(月末に奪われる)。

考察:※「みやしろ」を御社(神社)、「たま」をその神社のご神体の玉として考察することもできますが、ここでは「みやしろ=宮城」として考察します。

・宮城(みやしろ、きゅうじょう):皇居の以前の呼び名
・盗人:泥棒、曲者、したたか者
・密か(みそか):ひそかに、こっそりと
・三十日(みそか):月末、月の最後の日

句では、宮城(=皇居)から玉が「みそか」に奪われる、とあります。みそかは「密か」と「三十日」の掛詞であり、ひっそりと、また月末に奪われると読めます。

皇居で奪われる玉とは、おそらく「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」のことでしょう。

八尺瓊勾玉は、唯一皇居に保管されている三種の神器の一つです。天孫降臨でニニギノミコトが地上に降り立つ時に、天照大神から授けられました。

八尺瓊勾玉を含めた三種の神器を受け継ぐことは、皇位継承の証です。万が一何者かに奪われるとしたら大変なことです。

句ではまた、盗人の声が皇居からかすかに聞こえるとあります。仲間と奪う算段でもしているのでしょうか?

「盗人」には、曲者(=怪しい者)という意味もあります。外部から忍びこむのはかなり難しい場所であるはずですが、盗人の正体も気になるところです。

ところで、八尺瓊勾玉は箱に入れられています。箱を開いて中を見ることは厳しく禁じられており、誰も、歴代天皇の方々でさえも八尺瓊勾玉を実際にご覧になったことはないそうです。

ただ、過去に冷泉天皇が箱を開けようとしたことがありました。結果として未遂に終わりましたが、箱を開けようとした時に中から白い煙が出てきたそうです。

この話は、おばあちゃんの「玉手箱」の話を彷彿とさせませんか?

(2)「もみじなく~」の短歌について

紅葉(もみじ)なく  雪の溶けたる  赤し山  木枯し吹きぬ  赤も白とて

意味:紅葉(もみじ)のない雪解けの「赤し山」に木枯しが吹く。赤なのに白だと言って。

考察:「赤し山(=赤い山)」と呼ばれる山では、すでに赤い紅葉(もみじ)の季節は終わっています。雪解けの山にはまだ雪が残っていて白く見えるので、木枯しが「赤い山だと言うのに、雪で白じゃないか」と、からかって吹いていく。という内容です。

この句には、不思議な点が2つあります。

1つは、この句に「雪解け(春)」と「木枯し(冬)」の2つの季語があり、それぞれ意味する季節が異なる点です。

雪は春でなくても溶けることがあるので、恐らく季語は「木枯し(冬)」のほうでしょう。

しかし季節が冬なら、なぜ春と誤解されそうな「雪解け」をわざわざ詠んでいるのでしょうか?

それが2つ目の疑問です。山が白いと言いたいなら、単に雪を詠めばいいですし、そもそも冬なのに雪が溶けているとはどういう状況なのでしょうか?冷たい木枯しが吹いているので気温が高いとは考えにくい。

とすると、地熱が高いなどの理由で溶けているのではないでしょうか。(雪山に溶岩が流れ出て、赤く白いという解釈もあるかもしれません。)

もう一つの考察です。

椛(もみじ)泣く  行きの解けたる  証し山  木枯し吹きぬ  赤もしろ(白/城)とて

意味:椛が泣いてる。「行く事」が解かれた証しの山では、木枯しが「赤なのに白(城)だ」と吹く。

考察:句では、何かの「証し」となる山を『赤とあるのに「しろ」ともあるじゃないか』とからかって木枯しが吹く、と詠まれています。

このことから山の名前に赤と「しろ」が含まれていると推測され、「しろ」が掛詞とすれば、白と同じ読みの「城」が思い当たります。

つまり、歌に詠まれている山は「赤城山(あかぎさん)」だとわかります。

※一つ目の考察では「赤し山(赤い山)」と呼ばれる山と解釈しましたが、赤城山は、「赤き山(赤い山)」が語源で「赤城山」になった、という説がありますので、どちらの考察でも赤城山が該当します。

もみじの漢字には、紅葉のほかに「椛」もあります。「椛」は木へんに花と書き、葉が花のように見える事を表現した国字(日本で作られた漢字)です。

「椛」を分解すると「木花→木の花」となり、木花咲耶姫を連想させますので、泣いているのは木花咲耶姫ではないでしょうか。

古事記では、天津神(天の神様)のニニギノミコトが地上(葦原中国、日本)を治める役目を受けて天から降臨し、国津神(地上の神様)の木花咲耶姫と出会って夫婦になります。

産まれた子の子孫が天皇となり、代々日本を治めてきました。※天皇が治めるとは、政治に介入する事ではありません。統治者として存在するという事です。

句では「行き(=行く事)が解かれた」とありますが、これは治める役目が終わり、地上を離れるという意味ではないでしょうか?

木花咲耶姫が泣いているのは、その別れを悲しんでいるからだと思われます。木花咲耶姫は国津神ですから、子孫が地上を出てしまえば、遠く離れることになりますので。

そしてもし統治者が地上を離れることになるならば、世の中は不安定になってしまうのではないでしょうか。

以上より考察をまとめると、

天皇が地上を治める役目を終える時が訪れる。その「証し」が現れるのが赤城山である。

「証し」とは、赤城山で冬なのに雪が溶けるような何か(地熱の高まり(もしくは溶岩の流出)など?)と思われます。

雪解け水はまた、別れを惜しむ木花咲耶姫の涙なのかもしれませんね。

木花咲耶姫は、火の神、また火山を鎮める水の神とも言われ、富士山に祀られています。

富士山と赤城山との繋がりまではわかりませんが、木花咲耶姫は山の神様の娘であり、赤城山は山岳信仰のお山の一つです。

二つの短歌「みやしろに~」「もみじなく~」を合わせて考えると、宮城から「たま」が奪われる事と、天皇がお役目を解かれて『行く事』とは関係があるように思えます。

このような事が起こるとすれば、時期はおそらく冬のみそか(=月末)で、もしその頃に赤城山で雪が溶けるような『何か』があれば、それは証しであると言えるでしょう。

この句を詠んだ後に女神様が「潮目はまた変わってしまっています。仮初めとはいえ、さんかい(山海?何故かここは平仮名で頭に入った)の和が揺らぐは悲しき事です。」と仰いました。

「さんかい」とは、「三界(=現世、全世界)」のことではないかと思います。

「たま」が奪われることによって、仮初め(=一時的)ではあっても、世の中の和が揺らぐ、つまり乱れるという事ではないでしょうか。

女神様はまた、「神在りの祀りの後、師走より静かにやってきます。はじめは気付く者は気付き、気付かない者は気付かないでしょう。」「助言をしておきましょう。今は大いなるお方の創りたもうた世の美しきものをしかと目に焼き付けておきなさい。」と仰いました。

出雲では、今年2017年は11月27日の夕刻~12月4日夕刻までが「神在りの祀り」の期間となります。

八百万神が出雲に集まり会議を行うこの期間、決議の内容によって今後の日本の(また世界の)行方も左右されるのかもしれません。

師走について

師走が、旧暦に換算した12月を指すのか、節月の12月(暦を小寒から立春の前日(節分)までで節切りしたもの)かで期間は多少ずれますが、その頃に静かにやってくるものに注視すべきかもしれません。

 

「やがて来たりし時」と「ニの重なる年」の補足

11月3日に掲載していただいた投稿で、時白砂様の「やがて来たりし時」と「ニの重なる年」の年月日を書き出しましたが、それらは現在の暦を節分で区切った(節切りした)ものでした。

文中「旧暦で~」のように書いていたのですが、日付を旧暦に換算したわけではありません。(旧暦に換算すると日付が変わりますが、記述したのは換算していない現在の暦の年月日です)

以前の日本では、立春から節分までが1年でしたので、旧暦というより、節切りの暦から考えた1年、という意味でした。

紛らわしくてすみません。よろしくお願いします。

 

「二の重なる年」について

10月18日に掲載されたみひろんさん投稿の、「やがて来たる、ニ(2?荷?)の重なる年に注意しなさい。」について、「節分が2月2日の年」と先日考察しました(投稿日10月22日)。

その際、ニの重なる年を書き出したのですが、西暦のまま記載してしまいました。正しくは旧暦に当てはめるべきでしたので、訂正版を再度投稿します。

※旧暦では一年の始まりは立春、終わりは節分となります。

時白砂様の(1)「ひかりやすんず~」の歌では立春が年明けと詠まれていることから、時白砂様から知らされる時は旧暦表示が正しいのだと思います。

改めて、二の重なる年(節分が2月2日の年)を旧暦に照らし合わせると、

1)2024年2月4日~2025年2月2日→辰年
2)2028年2月4日~2029年2月2日
3)2032年2月4日~2033年2月2日
4)2036年2月4日~2037年2月2日
5)2040年2月4日~2041年2月2日
6)2044年2月4日~2045年2月2日
7)2048年2月4日~2049年2月2日
8)2052年2月4日~2053年2月2日
9)2056年2月4日~2057年2月2日

のようになります。この1)~9)の期間は、二の重なる年が4年毎に巡って来ます。

 

新たな「記憶のお告げ」(9/25)の考察1

原文:「ひらきひらきて ときわすれ、うつつもうつろも ひとしれず、いうにいわれぬ もどかしさ、たつにたたれぬ ふがいなさ、やがてふきたる いぶきうけ、たねあるみたま ひかりもえいず」について考察します。

この歌は、時白砂様が「やがて来たりし時を知らすぞ。」と仰り詠まれた歌の一つ(2つ目)です。

訳:「開き開きて 時忘れ、現も虚も 人知れず、言うに言われぬ もどかしさ、立つ(/辰)に立たれぬ(/祟れぬ) 不甲斐なさ、やがて吹きたる 伊吹うけ、種ある御霊光萌え出ず

意味:(物事が)次々に起き始まり時間が過ぎるのも忘れ、現実も虚構も人知れず(起きる)。言葉にできないもどかしさ、止めようにも止められない意気地なさ、やがて吹き出す伊吹を受けて、種ある御霊には光(生命力)が萌え出すだろう

考察:これから来る「大峠」について詠まれた内容だと思います。

大峠に入ると、タメシ(試練)が立て続けに起こって時間の過ぎるのも忘れるほどである。また、うつつ(現実)での事も、うつろ(虚構)もひそかに人知れず起こる、とあります。

「うつろ(虚)」は「うつつ(現実)」に対比で使われているので、事実ではないような虚構(偽り、ウソ、デマ)、ゆめ幻のような現実とは思えないようなこと、目に見えない物事などが推察されます。

現実として実感できる事柄の他に、「うつろ」な物事も人知れずひそかに起こって行くということなのでしょう。

これから先、どんなことが起こっていくのか、歌の詠み手は言いたくても伝える事ができずもどかしい気持ちであること、また起こるのを止められない不甲斐ない気持ちであると歌に込めています。

一方で、文中の「たつにたたれぬ ふがいなさ」は、「辰に祟れぬ(→辰年に祟られる)のを見るのが偲びない」という意味にもなります。祟りとは、神仏がもたらす災いの事で、自然災害や疫病などです。恐らく次にやって来る辰年に祟りがあるという事ではないでしょうか。

次にやって来る辰年は「2024年」です。旧暦に当てはめると、2024年2月4日(立春)~2025年2月2日(節分)となります。この旧暦の辰年は「ニの重なる年」の最初の年でもあり*、大峠の始まる時なのかもしれません。

*2020年立春~2021年節分もニの重なる年になるかもしれないのですが、私は大峠の始まりは上記の辰年のような気がします。

歌の続きですが、「やがてふきたるいぶきうけ~」以降は、大峠(度重なる試練の時)を乗り越えた後?のことを伝えていて、神様からの伊吹を受けると、種ある御霊に光が芽生えるとあります。

神様に触れることでパワーをいただく事は日常でもあります。例えば新年に初詣をしたら心機一転、新しい気持ちで今年も頑張ろう!と思えたり、お祭りに参加して活力をもらって元気が出た!など。

そうした時には神様からのパワー(伊吹)を受けて、自分の中にある生命力が奮い立たされているとされます(いわゆる、ハレと褻枯れの考え方)。

歌では大峠を乗り越え、種(磨かれた魂)を持つものには、神様からの伊吹を受けて、自分の中にある生命力が奮い立たされて萌え出すだろう、とあります。(だから辛い時も頑張りなさい、という励ましも含まれていると思います)

 

新たな「記憶のお告げ」(9/25)の考察2

原文:「まことのつちの たつおりて、はじまるみよは ひかりのよ、いたるみちのり きびしけれど、わしてねぎれば みちはひらけん おどろくなかれ たまてばこ、つちうみそらも ひちへんげ やがてしるべし きんのむなしき、やがてくゆべし いくさむなしき」についての考察です。

この歌は、時白砂様が「やがて来たりし時を知らすぞ。」と仰り詠まれた歌の一つ(3つ目)です。

訳:「真の土の 辰おりて、始まる御代は 光の世、至る道のり 厳しけれど、和して祈れば 道は開けん 驚くなかれ 玉手箱、土海空も 七変化 やがて知るべし 金の虚しき、やがて悔ゆべし 戦虚しき

意味:真の土の辰が降りて始まる(神様の)御代は光の世である。至るまでの道のりは厳しいけれど、(皆で)和して祈れば道は開けるだろう。

驚くなよ、玉手箱を。土も海も空も七変化のように様変わりする。やがて知るだろう、金が虚しいことを。やがて悔やむだろう、戦が虚しいことを。

考察:「まことのつちの たつおりて」は、干支(かんし)が戊辰(つちのえ たつ)にあたる2048年2月4日~2049年2月2日(次の旧暦の戊辰の年)と推察されます。

干支(かんし)とは、十干と十二支を組み合わせたもののこと。戊辰(つちのえたつ、ぼしん)は、十干の戊は土の陽干、十二支の辰は土の陽支なので、十干と十二支で、同じ「土」の気が重なります。

歌の「まことのつち」は、十干と十二支の気が同じ「陽の土」の比和の時、という事だと思います。

※比和(ひわ):同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。

この戊辰からは、光の御代が始まるとありますので、大峠が終わり?、新しい世に生まれ変わる時なのでしょう。

大峠の始まりが2024年2月4日~2025年2月2日(旧暦の辰年)とすると、大峠は戊辰に至るまで実に24年続くことになります。

長く厳しい道のりだが、皆で和して祈ることで道は開ける。そしてたどり着いた戊辰には「玉手箱」が開きます。

「玉手箱」とは、地上(土)、海、空が生まれ変わる大変革のことなのでしょう。恐らく魂産みの君の「産魂、ムスヒ」の力によるものだと思います。

実際にどのようなことか起こるのか想像もつきませんが、大変革を前にしたら、お金の価値など無意味なことを知るし、戦争も無駄なことだったと悔やむことになるだろう、とあります。

光の御代が始まる戊辰には、私達を取り囲む世界(天地)も、それまでの価値観も、つまり目に見えることも見えないことも、あらゆることが変革の時を迎えて新しい時代に入って行くのでしょう。

だから、お金に振り回されたり戦争なんてすることが、無駄で無意味だと早く気づきなさい、とお告げは伝えているのではないでしょうか?

■まとめ

時白砂様の伝えて下さった「やがて来たりし」時とは

(1)節分
(2)2024年2月4日~2025年2月2日(旧暦の辰年)
(3)2048年2月4日~2049年2月2日(旧暦の戊辰の年)

になります。

(1)「節分」は、いろいろな意味でキーポイントになる気がします。

→節分翌日の立春が「年明け」になることから旧暦を示唆。
→旧暦の節分が2月2日の年は特に気をつける年(二の重なる年)
→疫病を暗示?(起こる災厄のうち特に深刻なのかも)
→今後富士山に現れるお印は節分~立春の頃にあるのかも?

(2)は恐らく大峠の始まり。

(3)は光の御代の始まり(大峠の終わり?)

ところで(3)で玉手箱が開くと、天地が大変革を迎えるようなのですが、これはむしろ大峠よりも大きな動きなのではないでしょうか?どんな風になるのか、まだまだ想像もつきませんが。

・お告げをいただいた時白砂様について。

お名前は「時を知らす」の意味でしょう。「知らす」には、「知らせる」という意味と「治める」という意味があります。つまり時白砂様は「時」を治め、暦と深い関係のある神様ではないかと思います。

 

「記憶のお告げ」の続き(9/26)の短歌の考察

「記憶のお告げ」の続き(9月26日掲載)の短歌の考察です。

枯れ葉落ち 小節(小雪)大節/大切(大雪) 乗り越えて 雪と撒かれん 海の潮花

意味:枯れ葉が落ち、小雪・大雪を越えるように海の潮花(=波の花)が小節・大節を乗り越えても、雪と撒き散らされて区別がつかなくなってしまう

考察:二十四節気で小雪は11月21日頃、大雪は12月7日頃。

海の潮花は波の花のことでしょう。波の花とは、厳冬の日本海側で見られる白い泡状のもので、波に寄せられて海岸に溜まっていたり、風で飛ばされて舞い散る姿は雪のようにも見えます。

おばあちゃんが受けるお告げは、波に乗せて伝えられることが多いですよね。

つまり、この歌の「海の潮花」はお告げの比喩として使われています。

小節=つまらない義理のこと
大節(大切)=重大な事柄、大事のこと

この短歌は季節の風景に掛けて、「お告げ(=波の潮花)を伝えても、似て非なるもの(=雪)に紛れてしまい、区別がつかない。小節を乗り越えるときに散らされて他に紛れてしまうし、肝心の大節(大切)を見過ごして(スルーして)しまっている」と伝えています。

お告げの考察が入り乱れて本意が埋もれているということでしょうか。

 

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